ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

日本近代化の礎【尚古集成館】に見る島津家の歴史と功績

仙厳園の御殿を囲む

1万5000坪という広大な庭園を

隅々まで散策…といきたいところですが

時間の都合上大幅にカットです^^;

 

19代当主島津光久によって築かれた島津家別邸・仙厳園は

28代斉彬もこよなく愛した場所で

自らは藩主就任当時の時代背景により

西欧列強と渡り合えるように

集成館事業に取り組んだ地でもあります。

 

桜島を見る飛び獅子を乗せた灯籠。

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園内最大という笠石は8畳分。

 

これとは別の灯籠でガス灯を実験した斉彬は

城下町にガス灯を灯す計画を立てていたとか。

 

まだ1月半ばを過ぎたばかりだというのに

梅の開花も早い。

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桜島を築山に

錦江湾を池に見立てた雄大な景観を日々目にすれば

視野も広がるかもしれませんね。

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それにしてもお天気がつくづく残念で桜島も灰色です

 

今回足を踏み入れなかった庭園の奥には

竹林や曲水、中国風の東屋など庭としての景観も保ちつつ

29代忠義の築いた水力発電用ダムの跡もあります。

 

落差を利用して水車を回転させ

その電力で御殿や庭を灯し

自家用電話も引いていたとか。

 

庭園内の「集成館機械工場」は

すでに斉彬によって水力発電を取り入れていましたが

鹿児島市内ではじめて電灯が使われたのは1897明治30

電話は1906明治39年のことでした。

 

1907明治40年には

姶良郡隼人町に水天渕発電所を建設し

30km離れた島津家の山ケ野金山の設備を

電力に切り替えています。

 

仙厳園の正門近くには

水天渕発電所の壁が記念碑として残されています。

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お約束の丸十紋。

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そして反射炉跡もあります。

耐火煉瓦の重圧に耐えるための

頑丈な石組だけが残されて…

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日本の鋳造技術では

とうてい大型の大砲など造れるはずがなく

鎖国の日本で島津斉彬たちは

実物を見ることもできず

外国の技術者もおらず

オランダの書物だけを頼りに

苦心して建設したという。

 

隣国の清は英国とのアヘン戦争に敗れ

その前後から琉球の沿岸には異国の船が現れ始め

つど琉球から薩摩藩に報告されていたそう。

 

斉彬が藩主に就任してからは

益々頻繁となる海外からの脅威に

いよいよ日本も

西欧列強から植民地化されてしまう、と危惧し

国を護るべく

自前で大砲や鉄砲、戦うための船をつくる必要があるとして

藩主就任前から温めていた

「集成館事業」という近代化事業に力を注ぐのです。

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反射炉の向かいの建物では10分の1の断面模型が。

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燃料を燃やした反射熱で鉄を溶かす反射炉は

燃料と鉄が別々の部屋になるため

直接触れず混じりけのない鉄ができるそうで

高い煙突は空気の流れを起こし

燃料が燃えやすくなっていたらしく

約3tの鉄を溶かすことが出来たそう。

 

だらりんは

興味深く見てたけど退屈!!はやくいこーよ笑

 

仙厳園内にある

博物館「尚古集成館本館」は

日本最古の機械工場「旧集成館機械工場」だったところで

島津家800年の歴史や文化を紹介しています。

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内部は撮影禁止となっています。

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前述した水力発電は 

機械やセメントも無い1852年に

水の漏れない疏水溝をつくって

集成館に水を供給して(史跡・関吉の疏水溝)電気を起こし

山で焼いた木炭(史跡・寺山炭窯跡)で

反射炉の溶鉄やガラス工場

紡績、蒸気機関などの熱源としていたとのことでした。

 

斉彬は幼少のころから

曾祖父・重豪よりその才能を認められ

重豪と同席で蘭学医・シーボルトと会見しているほど。

 

ただ重豪は蘭癖が過ぎて薩摩藩は大赤字になってしまい

藩の財政を立て直したのが父の成興で

嫡男の斉彬が藩主となれば

また財政は困窮するのではないかと

斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らなかったそう。

 

いっぽうで

成興の側室・お由羅の方は

斉彬とは異母弟になる久光を擁立するよう企て

お家騒動(お由羅騒動)がおこるのですが

収束し斉彬が藩主就任となりました。

 

斉彬が集成館事業に取り組むには

膨大な資金がかかるため反対派もあり

1858年に斉彬が急逝後

事業はいったん縮小されています。

 

しかし

その後におこった薩英戦争では

斉彬が提唱した機械工場で製造された大砲などが大いに役立ち

斉彬の唱えた近代化の重要性を再確認することとなるのです。

 

斉彬の遺志を継いで

薩摩藩最後の藩主・忠義は

実父の久光と集成館事業を再興しています。

 

さらに集成館事業で活躍した人たちが

国内各地の工場に技師として招かれて

日本の近代工業化に一役を買っています。

 

集成館は

やがてやって来る文明開化のさきがけで

日本を近代国家へと導いた

原点の地といっても過言ではないでしょう。

 

このような島津家はじめ薩摩藩の功績と

九州各地や山口県にある23の遺構が

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として

世界文化遺産に登録されています。

 

漠然としたことしか知らずに行ったけど

洋書しか情報が無い中で試行錯誤しながら

これだけ大規模な工場を運営をして…

知れば知るほど先人たちの先進性と努力には感服しますね。

 

尚古集成館と仙厳園と御殿は1500円の入場料金でした。

 

  

 付近は

このような異人館が点在していました。

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上は薩摩切子の工芸館で

見学や体験ができるようです。