ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

日本最古じゃなかった!!【丸岡城】と【一筆啓上・日本一短い手紙の館】関西の奥座敷【あわら温泉】

かつて織田信長が

越前における一向一揆を平定するため
家臣の柴田勝家率いる軍を

丸岡にあった「豊原寺とよはらじ」へ送り

攻略しました。

越前の国を与えられ

「北ノ庄城」を築城した勝家は
福井藩の出城として甥の柴田勝豊に

丸岡城を築かせたのが1576年。

 

関ケ原の合戦後

越前の国には徳川家康の次男・結城秀康が

「北ノ庄城」改め「福井城」に入城したのち

「丸岡城」には江戸幕府の附家老・本多成重が

4万3千石で入城しています。

 

「丸岡城」は

これまで「日本最古の天守閣」とうたわれてきましたが

築城は

北の庄城主・柴田勝家の甥の勝豊によって1576年とするものと

初代丸岡藩主・本多成重が入城した1613年とする

2つの説があったのです。

 

お城の国宝登録を目指した坂井市が専門家に委託して

天守の柱などの部材の年輪や放射性炭素濃度

酸素同位体比を調査していたそうで

その結果

多くは江戸時代の寛永年間

1624~44年に伐採されたことが判明したそう。

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天守台の石垣が

自然石をそのまま積んだ野面のづら積みという古い工法なので

天守も当初のまま、あるいは前身となる天守から改修した可能性も

信じたいところですが

天守の構造に重要な役割を持つ通し柱が

1626年以降に伐採されたという判定が出てしまい

江戸時代に新たに建てられたとするのが正解に。

 

ちなみに
1600年代以前に建造された現存天守は
1590年代の築城とされる「松本城乾いぬい小天守」のみで
1601年の「犬山城」1606年の「彦根城」と続きます。

 

天守へ続く長い直線の石段が

どこかの国の遺跡を思わせるような印象…?

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よく見ると5段上って踊り場となり

そこから直角に曲がっていたのでした。

 

天守閣は外観は2層に見えて内部は3層に分かれる2層3階建てになります。

 

踊り場には大小のしゃちほこ。

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落下し分割されてしまったものの

これもまた遺跡にありそうで新鮮に見え

どことなく愛嬌のある姿です。

 

本来の木彫り銅板張りのしゃちほこが

戦時中に金属として回収されたしまったため

屋根瓦と同じ笏谷石しゃくだにいしで作成するも

1948昭和23年の福井大震災で落下したためここに展示し

今は復元した木彫り銅板製しゃちほこが乗っているとあります。

 

前述した笏谷石です。

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福井県の福井市にある足羽山あすわやまでしか取れず

柔らかいため加工しやすく

青みを帯びた色合いは水に濡れると鮮やかさが増すのが特徴です。

 

石で葺かれている屋根というのは大変珍しく

瓦は1枚当たり20∼50㎏となっており

総数およそ6000枚の瓦は120tに及ぶとか。

 

天守入り口から右にある階段を横から見上げると

1階と2階の階段が一か所から見えるのも珍しいそう。

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 人が映り込んだ残念な写真ですが

2階の階段が少し見えますよね。

 

築城当初は五角形のお堀の中に位置した本丸は

外側をぐるりと侍屋敷で囲み

さらに川の水も取り込んだ堀で

寺院や民家をまとめていたというジオラマ。

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 ロープを掴んで急こう配の階段を上がって

がらーんとした中に2階の造りの説明。

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窓からは破風はふから下げられている懸魚げぎょがみえます。

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しゃちほこと同様に

火除けのために水に縁のある魚を懸けたまじないが由来らしく

屋根の妻の部分を隠すための装飾も兼ね

ひれや水の流れがデザインされているようです。

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3階へ上がるには

壁のすぐ近くに設けられている67度の勾配の階段 を。踏み外しても挟まりそうな?

 

ちなみに1階から2階へは65度

もっと怖いかと思っていたけどロープを使って意外と簡単に登れました。

 

勾配はかなりきついですが

階段の裏側には板が張られているので

スカートでも人目を気にせず登れると思います、たぶん。後ろ姿は知らんけど

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これまたがらんとした空間。

 

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3階は下層と形が異なり

物見櫓が乗せてあるような廻り縁えんのある

望楼型という初期の天守に多いタイプになります。

 

もう一度外観を見て確認してみましょう。ほら。

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欄干の内側が廻り縁です。

 

 

丸岡の町並みと笏谷石の屋根瓦がすぐ下に。

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さて

江戸時代に入って「丸岡城」の初代・本多成重

父は本多重次といって家康に仕えた人ですが

気性が荒く「鬼作左」と呼ばれるも正しい人柄であったといいます。

 

長篠の戦の陣中からは家族を思い

送った手紙の内容が

「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥せ」というもの。焼肉焼いても家焼くな

 

お仙とはのちの成重のことで

火の元の注意と

仙千代が病気にならないように

戦で大切な馬の世話も怠らないように、といった意になろうかと思われます。

 

僅か17文字の中に

無駄なく簡潔に

気遣いと用件を伝えている手紙の手本として

今に語り継がれる有名なもので

丸岡町ではこの手紙をモチーフに

「一筆啓上賞」という全国初の手紙のコンクールを毎年開催しています。

 

2015平成27年には「一筆啓上 日本一短い手紙の館」がオープンし

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これまでに寄せられた手紙を展示し

活字やメールでは伝わらない本物の手紙の復権を目指しているとのこと。

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 ユニークな着眼点を持った子供の作品や

じーんと心に響くようなものまでさまざまな手紙があるのです。

 

お城と歴史民俗資料館との共通券(450円)になっているので

必ず行くべし!!

 

4月1日からはお城一帯の「霞ヶ城公園」で

丸岡城桜まつりも開催され

300本ものソメイヨシノに包まれるさまは

丸岡城の別名「霞ヶ城」そのものとか。

www.maruoka-kanko.org

つぼみはまだ固かったです。

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勝豊が築城する際

石垣に人柱を募ったところ

我が子を侍にしてくれるなら、とお静が名乗りを上げ

お城は無事完成するも侍にしてもらえなかったことを恨み

春先に降る雨を「お静の涙雨」と呼び慰霊碑を建てたのが上の写真。

 

桜まつりは晴れてほしいですね。

 

こちらにお世話になりました。

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「あわら温泉」

福井最大を誇る

田園地帯に湧いた風情のやや少ない温泉地ですが

それを克服するがごとく

どの宿泊施設も露天風呂や庭園などに

こだわりがあるようで

来訪者を飽きさせない、とか。