ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

ジョサイア・コンドル建築の【六華苑・諸戸氏邸】で【連鶴】に驚く!!桑名の名産【蛤】のことなど

日本橋からはじまる東海道は

今の名古屋市内・熱田神宮の前の海から

「宮の渡し(七里の渡し)」といって船で海上を七里(約28km)漕げば

三重県の桑名市に入ります。

 

桑名市は東海道42番目の宿場町であり

桑名城10万石の城下町であったところ。

 

城主は江戸幕府の樹立に功績を建てた徳川四天王の1人・本多忠勝で

2代・本多忠政はのちに

西国へのにらみを利かせる要所に位置する姫路城の

初代城主として入城しています。

 

桑名藩主は松平氏へ変わり最後の城主は松平定敬さだあき

兄は会津藩主・松平容保かたもりという関係から

桑名藩内で新政府側への分裂はあったものの

戊辰戦争を経て明治維新まで徳川幕府についたところなのです。

 

お城も解体されてしまった明治時代には

この地から現・諸戸ホールディングスの基礎を築いた

日本一の山林王・諸戸氏を輩出しています。

 

同県木曽崎の生まれである諸戸清六は

母親が始めた米穀取引の事業を引き継ぎ父が残した借金を返済。

 

大蔵省御用の米買付方となり

財政界人との親交も持つようになっていったらしく

大隈重信や岩崎弥太郎、山形有朋といった大物からも

その才能を認められ事業もさらに拡大発展していったとか。

 

明治という激動の時代に田畑や山林の購入をかさね

日本一の大地主となるも

時間とお金の倹約家であったらしく

熱いご飯は食べるのに時間がかかるから

あらかじめ冷ましておくように指示してあったとか

人力車は飛び乗ると同時に走り出さないと機嫌が悪くなったとか

倹約のエピソードからして凡人ではない模様。

 

いっぽう水道施設(諸戸水道)を一般に開放し

消火栓を設けるなど地域には大きく貢献しています。

 

地方においての水道施設など当時は珍しいもので

大都市に次いで全国で7番目の上水道の普及でした。

 

諸戸清六が買い取った諸戸氏住宅と庭園はこちら。残念ながら入苑できず

www.moroto.jp

諸戸家と大隈重信との交流は深く

4男・清吾は大隈氏が設立した早稲田大学に籍を置いています。

 

清六が死去したことで清吾は2代目・清六を襲名し

事業を引き継ぐとともに育英会の設立など教育にも力を入れた人。

 

1913大正2年に新居を建築したのが現「六華苑」で

こちらは休業日以外は通年見学可能です。

 

 

設計は鹿鳴館などを手掛けたジョサイア・コンドルによるもの。

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そしてパンフレットと同じ場所で撮る!!笑

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コンドルの地方に唯一残る作品として注目されている、とのことですが

地方なのにお抱え外国人に設計してもらえる諸戸氏が

いかに大きな人物であったかがうかがえますね。

 

玄関を入ると広いホールを中心に

応接室や食堂などを配置するのはコンドルの得意技。

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暖炉もいくつかありました。

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まだ珍しかった曲面ガラスは塔屋で見られます。

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女中さんの部屋はカーペットが敷いてある洋風なのに

収納は押入れという折衷↓

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風の冷たい日でしたが

サンルームはぽかぽかでした♡

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塔屋は3階までしか行けず

4階は非公開となっていました↓

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4階塔屋からは揖斐・長良川が眺められる諸戸氏お気に入りの場所だったそう。

折れ曲がる階段もコンドルが多用した設計の1つ。

 

ほかトイレもやはり当時としては珍しい水洗式でした。

 

洋館から和館への接続地点↓写真ぶれぶれ^^;

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揺らいで見える昔のガラス。

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何畳あるんですかーーーーーー?

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見よ!この長い廊下を!!

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これほど大きな和館を併設する設計もまた珍しいとか。

 

1997平成9年には洋館、和館が国の重要文化財に

2001平成13年には庭園が国の名勝の指定を受けました。

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別棟では「桑名の折り鶴」の紹介と飲み物などで休憩も取れます。

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1枚の紙に切り込みを入れて数羽の連続した鶴を折る「連鶴」というもので

桑名の長円寺の僧・義道ぎどうは号を魯縞庵ろこうあんといって

18年かけて158種類の連鶴を考案し

1797年には「秘伝千羽鶴折型」を刊行しています。

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現在48種類の連鶴が伝わっていて

綺麗に作るには

つなぐ部分は3㎜以内にするとか

繊維質が残って破れにくい楮こうぞ100%の和紙に限るとか

机に置かず手に持って折るなど

コツがあるようです。

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どれも本当に1枚の紙からなのか「その手は桑名の焼き蛤」と

昔の人の駄洒落(その手は食わない、と桑名名産・蛤にかけて)を言いたいところですが^^;

手先の器用さに脱帽するのはもちろん

なにより魯縞庵の発想力が素晴らしくて!!

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桑名で見た連鶴は

折り紙の常識を超えた大変なものになっていました。

 

こちらに詳細ありました。

orizuru49.com

連鶴を見ながらお抹茶いただいてきました。

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※追記

桑名の名産である蛤は

浜にあって栗に似ている「浜栗」と呼ばれたのがはじまり。

 

また

正しい道を踏み外す、あるいは不良になることを

「ぐれる」というのは蛤が由来となっている。

 

古く「貝合わせ」に用いられたのは

対となる殻以外は合わせられないという

蛤の殻の性質を利用してのこと。

 

貝合わせは

90個以上の貝殻の中から

1つの貝殻に合う貝を見つけるという遊びであり

ひな祭りには

対になる貝殻を夫婦に例え

ただ1人の伴侶と

末永く幸せに暮らせるよう願いを込めて

蛤のお吸い物が用意される。

 

しかし蛤の殻は

一方をひっくり返すと合わなくなることから

江戸時代末頃には

物事が食い違うことを表現する

「ぐりはま」という造語が生まれた。

 

さらに「ぐれはま」と転じ

動詞化して

社会と合わない反対の行動をとることを

「ぐれる」と言うようになった。