会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」と
合わせて見ておきたいのが
白虎隊ゆかりの地ではないでしょうか。
戊辰戦争といえば白虎隊ですが
そもそも白虎隊の詳細も分かっていない私^^;
覚書として記しておきたいと思います。
まず戊辰戦争というのは
1868慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いに始まり
1869明治2年5月の函館戦争までの国内戦争の総称のことで
慶応4年が戊辰つちのえたつにあたることから
戊辰戦争と呼ばれています。
京都で敗戦した会津藩の藩主・松平容保かたもりは
朝廷への恭順を申し入れるも
新政府軍は多くの勤王の志士への弾圧を許さず却下。
容保は新政府軍と戦うことになるだろうと
仙台藩や米沢藩など30余藩からなる
「奥羽越列藩同盟」を組み抵抗するのです。
夏ごろには米沢、仙台と各藩が降伏し残るは会津藩のみ。
孤立した会津藩領・会津若松が戦いの拠点となり
鶴ヶ城での籠城で1か月の激戦の末
ついに落城、容保は降伏…
白虎隊の悲劇はこのときのこと。
会津藩では鳥羽伏見の戦いからの反省で
抗戦に備えてフランス式の軍制改革を行っていました。
部隊を年齢別に編成して
玄武隊:50歳以上
青龍隊:49歳以下、36歳まで
朱雀隊:35歳以下、18歳まで
白虎隊:17歳以下15歳までのちに16歳まで
朱雀隊を主力として青龍隊には国境を守らせ
それ以下の若い者たちは備え、予備軍としました。
日新館という厳格な校風で知られる
藩校の生徒であった若者たち
戦争がはじまり学校が閉ざされるも絶えず鍛錬をし
主力の人員が足りないと分かると
故郷を守るため前線へ出ることを願い出たのでした。
白虎隊の少年たちは殿様・容保を警護し滝沢本陣へ向かい
そこから戦場へと出陣。
白虎隊士中二番隊42名が
猪苗代湖の北西・戸ノ口原で敵陣を迎え撃つも敗走し
なんとか飯盛山にたどり着いたのは20名。
疲れ切った体で
見晴らしの利く高台に落ち着き城下を見下ろすと
鶴ヶ城が黒い煙と炎に包まれているではありませんか。
(実際は城下は燃えるもお城は燃えず籠城中だったのですが)
心の拠りどころであった鶴ヶ城が落城となっては
もはやこれまで、お城へ戻ることはかなわないのだと肩を落とし
殿様はすでに城と運命を共にされたのだ
ぐずぐずしていれば敵の手に落ちのちの世までも恥となる
最期まで会津の武士らしく切腹を!
と20名すべてが自刃してしまったのです。
互いに相手の喉を突いたり
切腹しきれずに介錯をする者もあり…
20名の中で1人だけ
飯沼定吉という少年が奇跡的にも助かっています。
定吉は脇差で喉を付くも骨が邪魔で通らず
側にあった石に脇差を立て喉を付いて意識不明となったのです。
飯盛山で少年たちが自刃したという話を聞いた
会津藩足軽の印出新蔵の妻・印出ハツが
自分の子はいないかと探しにきたところ
虫の息の定吉を発見し医者のもとへ運び
一命をとりとめたというもの。
定吉の証言によって
白虎隊の最期の様子が知られることとなり
あまりにも悲しい初陣の結末が
今に語り継がれているのです。
最期まで会津藩士らしく、と
その会津魂を支えたのは「什の掟」の精神でした。
白虎隊記念館についてはこちら
飯盛山へは見学自由ですが
足に自信のない方は飯盛山スロープコンベアを利用するのもあり。
飯沼定吉の叔母が西郷頼母の妻・千代子という関係だそうです。