ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

【佐渡島】【佐渡金山】

新潟へ行かねばならず

前乗りして「佐渡島」の観光をしてきて

帰宅後しばらくは

いいところだったなぁ…今度はゆっくり見に行きたいなぁ…なんて思っていたけど

月日の流れとともに

思い出は色褪せつつあります^^;

 

あまり移動ができないこの頃ですが

佐渡島のあれこれを記しておきたいと思います。

 

 

日本列島を描くとき

佐渡島を入れるのが新潟県民あるあるらしいのですが

その形は楕円が斜めに2つくっついたようなものになります。

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 佐渡島は沖縄本島に次ぐ大きな島で

海岸線はおよそ263km。

 

地形としては

楕円の上(北)が「大佐渡」、下(南)が「小佐渡」

2つの間には「国仲平野」が広がり

西の入江は「真野湾」東は「両津湾」が広がります。

両津はアニメ「こち亀」の主人公の名の由来とか?

 

訪れたのは秋も只中でしたが

気候は越後(本土)と比べれば意外と温暖だそう。

 

1000m級の大佐渡山地が日本海からの風雪を遮るため

雪が積もることも少ないのだとか。

 

佐渡は

大化の改新以降

島まるごとが「佐渡の国」として

佐渡国分寺が置かれました。

 

「流人の島」にされるほど

他の地域との交流も不便な島は

金が発掘された江戸時代には天領となり

幕府の財源確保のため大勢の人が集められ

ゴールドラッシュに酔いしれるのです。

 

それが

金銀の産出が減ると人も減り繁栄に陰りが出ると

幕府は財源維持のため

過酷な労働を強いるようになり

辛く厳しい金山の仕事は罪人の罪を償う場所という

暗いイメージにつながるものと思われます。

 

明治に入ると「佐渡県」さらには「相川県」となり

1876明治9年には「新潟県」に吸収され

現在は島1つで「新潟県佐渡市」となっています。

 

「島流し」や「流人」の島のイメージが強い佐渡島ですが

これは江戸時代までは

時の勢力に反する政治犯などが島送りにされていたもので

鎌倉時代の84代・順徳天皇や日蓮上人

鎌倉幕府の倒幕を働いた日野資朝ひのすけとも

室町時代の世阿弥(観世元清かんぜもときよ)といった人物が知られています。

 

都から高貴な身分の方々が流され

佐渡島は文化や風習に大きな影響を受けています。

 

その代表的なものが「能」で

江戸時代には200を超える能舞台があり

今も30ほどが残っていて人口当たり全国1位という多さで

日本の能舞台の3分の1が島内にあるのです。

 

春から秋には薪能が開かれて

島民も子供のころから能に親しんでいるそうで

能を大成した世阿弥の影響と言われますが

もう1つは

佐渡に金山奉行としてやってきた大久保長安が能楽師だったからだと。

 

奈良の能楽師を2人伴わせて佐渡へやってきて

神社に能を奉納した記録が残っているそう。

 

以降

能は庶民にまで浸透し

能を舞うことが男子のたしなみという認識が根付いていったようです。

 

今では年間20回以上の公演が行われているのだとか。

 

いっぽう

佐渡の繁栄を担ったのは「金」ですが

1000年ほど昔の平安時代に書かれた「今昔物語集」に

佐渡の国にこそ金の花咲きたる所は在りしか

意訳:佐渡ほど金の取れるところはない

とすでに京の都にも評判が聞こえていたようで

これは現在の史跡「西三川砂金山跡」のことを指しています。

 

今も多からず

砂金取りが体験できる

島内の観光名所の1つとなっています。

www.e-sadonet.tv

戦国時代には「鶴子つるし銀山」や

「新穂にいぼ銀山」が開発され

そこで培われた技術が

1601年から開発された「相川金銀山」通称「佐渡金山」で活かされているそう。

www.sado-kinzan.com

佐渡島観光の鉄板ともいえる場所でしょう。

 

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 入口が2つに分かれていて

左は近代的な「道遊抗」右が江戸時代の「宗太夫抗」で

入場料は各900円。

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道遊抗は明治時代に外国人技師を招いて開発された鉱山で

平成元年の操業停止後も機械や建物群が保存されていて

興味深いのですがまたの機会に。

 

宗太夫抗は宗太夫という山師が開発した坑道で

佐渡金山内の坑道では最大規模かつ最良の金が取れたところらしく。

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↑よく分らんが道遊山は穴だらけってことか

 

徳川家康が佐渡奉行を置いた相川の町は

人口は10万人を超え

ボリビアのボトシ鉱山やメキシコのサカテカス鉱山と並んで

世界屈指の鉱山で

400年も掘り続けられたことは

鉱山としての寿命が長く

世界的にも珍しい。

 

開山から100年足らずで

鉱脈を求めて坑道は海水面下にまで達し

坑内に湧く大量の地下水を坑外へ排出させる疏水が設けられ

ある者は桶で水をくみ上げ「水請け込み船」へ流し…

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灯した明かりからの

油や煙が坑内に立ち込めるので

新鮮な空気を送るための「風まわし唐箕とうみ」も

あまりあてにならなそうな…?

 

電気仕掛けの人形が

「馴染みの女に会いてえなぁ…」なんて喋ってる休憩所。

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「金穿かなほり大工」は技術者なので

他の労働者と違って食事や休憩の時間が取れ

むしろの上で横になることもできた、ですって!他の人は!?怒

 

「たがね」と「つち」だけで掘りすぎな件。深いーーーー

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金山開発当初

江戸幕府の佐渡奉行所に隣接した後藤役所は

金貨鋳造の独占工場で

小判の裏面には「佐」の刻印があるのです。

 

のちに

江戸や駿河、京都でも鋳造が行われるも

江戸時代後半には

全て江戸にまとめられることに。

 

江戸のかつて金座と呼ばれた日本銀行本店のあたりや

静岡市葵区の金座町

高級なショッピングなどが楽しめる銀座。

 

銅座ならぬ銭座(銅銭をつくる場所)というのも

各地に地名が残っています。

 

佐渡金山の坑道総延長は400kmにも及び

これは佐渡から東京までに匹敵する距離だとか。

 

坑道を出た先には

資料館がありました。

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江戸時代の相川の町の様子や採掘の道具など。

 

その先に

お決まりの売店がありまして

まばゆいばかりのお土産物が並んでおりました笑

 

金は錆びないのです笑

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平成に至るまで78tの金と2330tの銀が

佐渡金山で発掘されたということですが

人間の金に対する欲望が分かるのがこちら↓

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道遊山が真っ二つになっています。

 

圧巻ですね…^^;

 

案内板にあった写真ですが「道遊抗」で見られる近代遺産↓

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あのアニメを思い起こさせますね♡

 

冒頭にあげた西三川砂金山

鶴子銀山、新穂銀山と

こちらの相川金銀山は

現在「佐渡金銀山遺跡」としてユネスコへの登録を目指しているとのこと。

 

鎖国という特殊な状況下において

手工業の鉱山開発が評価されたいところです。

 

※追記

「山勘」と「山」について

ここでいう山とは鉱山や鉱脈のこと。

鉱山や鉱脈を探し当てて採掘する山師のように

感を働かせることを「山勘」という。

 

「山を掛ける(張る)」

「山が外れる」なども同じ山。

 

ほか

戦国武将の武田信玄の参謀で

軍略に長けていたといわれる「山本勘助」を

省略したという説もあり。