城崎温泉を中心とする但馬地方の観光に
余裕があれば是非とも立ち寄りたいのが
「出石町いずしちょう」。
古い歴史ある町の名は
古事記や日本書紀にも見られるほどで
室町時代は
但馬や播磨を支配した山名氏の拠点でした。
山名氏以後の江戸時代は
小出氏、松平氏、仙石氏と続き
出石藩は
但馬第一の城下町として
5万8千石の繁栄を誇ってきたのです。
出石城跡から北部に広がる出石町は
「但馬の小京都」と呼ばれ
復興された隅櫓
内堀にある辰鼓楼しんころう
白い築地塀の旧家老屋敷など
城下町の面影がそこここに感じ取れます。
そんな出石の観光の第一歩は
やはり出石城跡からでしょう。
現在の有子山ありこやま麓に位置する出石城跡は
江戸時代に入ってから小出氏が築いたもので
山名氏の居城は
町の北はずれに位置する「此隅山城このすみやまじょう」でした。
織田軍の羽柴秀吉に攻められ落城し
有子山に城を築くも再び落城し
山名氏は滅亡。
1604慶長9年
小出吉英よしふさが有子山の麓に築いたのが
出石城となります。
最上段の稲荷神社から本丸、二の丸と続き
平地には三の丸と堀
堀の外側に城下町を整えたのが
現在も残る出石の町なのです。
明治の廃城令で
お城は解体されるも石垣は当時のまま。
隅櫓や登城門、登城橋が復元され
石段と鳥居をくぐっていけば
碁盤目状の町筋が一望できます。
春は桜の名所となり
桜まつりの開催中は
出石ならではの
「出石そば喰い大会」も行われます。
出石は「皿そば」が名物ですがこれは
仙石氏の初代・政明まさあきらが
信州上田城から転封してきたため。
お国替えには
蕎麦職人をも連れてきて
信州の味を懐かしんだのが
出石そばのはじまりです。
幕末の頃からは
持ち運びに便利な割り子そば形式となり
天塩皿てしょうざらに盛られたそばが
5枚1組で1人分。
徳利に入ったダシと
玉子、山芋、わさびや葱などの薬味で
いただきます。
食べ終わったお皿を積み重ね
箸を立てた高さに達すれば
一人前の大人として扱われるのだとか。
出石は関西にありながら
30軒余のお店が集まる
屈指のそば処として知られており
そば好きであれば
城下町を散策しながら
皿そば巡りも楽しめてしまうのです。
皿そばに使われる器は
江戸時代に考案された「出石焼」で
白く透き通るような磁器は
出石で産出される陶石が原料です。
町を歩けば
出石焼のお店もあり
品のある焼き物が目に留まるでしょう。
また
古くは杞柳製品をルーツとする
「鞄かばん」の産地としても有名です。
但馬開拓の祖とされる天日槍あめのひぼこが
柳細工の技術を伝えたと古事記にあり
奈良時代には豊岡で作られた柳筥やなぎばこが
正倉院に納められています。
室町時代には
柳行李が商品として売買され
すでに地場産業として定着していた模様。
江戸時代には
豊岡藩の独占取扱品となり
柳行李の生産と柳の栽培を行っていました。
今では
300を超える鞄関連の企業が
豊岡市に集まり
全国生産の80%のシェアを占めているのです。
話は出石の城下町に戻りますが
先日
日本最古と言われる時計台の決着がつきました。
これまで
札幌の時計台と共に
最古とされてきた辰鼓楼しんころう。
両市の時計台が稼働したのは
1881明治14年と同じ年ですが
辰鼓楼の稼働月日は謎のままでした。
2021年の今年は稼働から150年目。
時計台として稼働した日付を
特定する調査をしたところ
札幌の時計台よりも27日遅い
9月8日と表記された文書が発見され
残念ながら
日本で2番目であることが判明したのです。
※辰鼓楼の背後は有子山 突き当りは出石城跡↑
どこからでも目に付くような
存在感を放つ時計台の内部は
4階建て、高さ約13m。
廃城となった出石いずし城の
木材を櫓に使用しているとあって
威厳が漂います。
かつて城下町の人々は
寺院の鐘で時刻を知りましたが
明治に入り代わりのものをと
1871明治4年
旧三の丸大手門脇の櫓台に
太鼓楼が造られました。
辰は時間
鼓楼は太鼓をたたく櫓を意味するそうで
辰鼓楼と名付けられ
当初は最上階から太鼓を鳴らして
時刻を知らせていましたが
城下町で開院していた医師が
時計を寄贈し時計台となりました。
現在の時計は3代目だそう。
長い間
道行く人々を見守り続けてきた
出石の顔ともいえる存在です。
町並みに馴染む辰鼓楼を見れば
2番目なんてそれがどうしたと
思えてきますよね^^
但馬の小京都・出石は
お城好きさんも、そうでなくても
そば好きさんも、そうでなくても
風情が感じられるであろう素敵な町でした。