ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

【一乗谷朝倉氏遺跡】

あのころ

ただ行ってきただけで

多くの見落としや

見直したいところがあるのです^^;

 

歴史への興味を持つ

きっかけとなった場所の1つで

できればもう一度行ってみたい

そんな思いを馳せる場所「一乗谷朝倉氏遺跡」。

 

福井市街地から南東約10kmあたりにある

三方を山に囲まれた細長い谷。

およそ400年前

織田信長の焼き討ちで灰となり

忘れ去られたかのように埋もれていたものの

1967昭和42年から調査がはじまり

その実像が明らかになるのです。

 

江戸時代の城下町でさえ貴重なのに

さらに古い戦国大名の築いた城下町とは。

 

しかも長い間埋もれていた町が

掘り起こされたなんて!ポンペイか^^

 

城下町の南北の端にはそれぞれ

巨石で造った「城戸きど」という門が置かれ

その17kmほどの間に

山上の城と麓の居館を含めた「一乗谷城」と

一乗谷川に沿った町がありました。

 

北側の「下城戸しもきど跡」から

城下町を訪ねます。

 

南の「上城戸かみきど跡」と共に

谷の狭い部分に設けることで要害とする

自然の地形を活かした城門です。

 

南が「上」なのは都に近いため。

 

越前、越中、越後

備前、備中、備後など京都重要視。

 

外部と遮断されていそうなこの地に

1万人の都市が存在していたとは

にわかに信じがたいのどかな景観です。

 

僻地どころか朝倉氏の時代は

三国の港への水運も良く

下城戸側は美濃街道が海の無い岐阜とを繋ぎ

産物のやり取りがあったであろうし

上城戸からは旧朝倉街道が越前府中(現・武生市)とを結び

奉行を派遣するなど要衝の地であったようです。

 

兵庫県養父市の朝倉にはじまる豪族・朝倉氏は

南北朝のころ越前へ入り

守護・斯波氏に仕えた家柄でした。

 

応仁の乱をきっかけに

戦国時代の下克上で

斯波氏に代わり朝倉孝景が越前を平定し

一乗谷朝倉氏の初代となります。

 

以降103年にわたり

朝倉氏は強大な勢力を誇り

一乗谷は越前の中心地として

栄華を極めることに。

 

4代・孝景の頃には

弱体化した室町幕府を支え

京都からは

戦乱を逃れた公家や文化人を迎え入れ

一乗谷は

「北の京」の別名さえ持っていました。

 

5代・義景が

信長に攻められ自害するまで

70万石の城下町として

雅やかな文化が栄えたところなのです。

 

最後の城主となった義景は

近江の浅井長政と

浅井氏滅亡後は武田信玄と組み

信長へ抵抗をつづけるも

武田信玄の急死や

従兄弟の裏切りなどで敗北しています。

 

いっときは

都の混乱から逃れてきた

後の15代将軍・足利義昭を迎え入れ

花見や盛大な宴を催すほどの名門で

将軍候補を擁して上洛すれば

天下を取っていたかもしれないのに

力及ばず信長に攻められ自害し

城下町は三日三晩焼き尽くされ

跡形も無く消えてしまったのでした。

 

400年の眠りから覚めた一乗谷といえば

この「唐門」。

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「朝倉館跡」の堀に面するこの門は

義景の菩提を弔うため

のちに豊臣秀吉が建てた松雲院の山門。

 

発掘前の1965昭和40年以前は

一帯は松雲院の境内であり

館跡は深く埋まっていました。

 

格式高い檜皮葺で唐破風の門は

菩提を弔うにふさわしく

渋い趣があります。

 

屋根に掛かる淡墨桜との取り合わせが

よく知られていて

できれば春に再訪してみたい^^

 

朝倉氏の定紋・三ツ盛木瓜と

義景の替紋(裏紋、副紋)・五三の桐。

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門をくぐって…

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館跡は

三方を堀と土塁に囲まれ

複数の建物と庭園の遺構があるらしく。

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50年かけて発掘された庭園遺構は15か所。

 

義景は

大の庭園好きだったらしく

数の多さに驚きです。

 

武将というよりは芸術家肌だったようで

京都からの文化人の影響を受け

能楽や茶道、和歌などにも通じていたとか。

 

庭石の配置も当時のままというのは

資料的にも価値が高く

室町時代末の日本文化の象徴とのことで

特別史跡に指定されています。

 

季節柄か彩りのない庭園という印象で

すぐ折り返してしまったため

次回への覚え書きです↓

 

4つの特別名勝・庭園群

  • 日本最古の花壇がある「朝倉館跡庭園」---複雑な護岸を見せる池と池底に平らに敷かれた石は発掘までそっくり埋もれていたもの
  • 戦国武将らしい力強い石組の「湯殿跡庭園」---岡本太郎氏が感動し長時間鑑賞した庭らしく、まじか私ってセンス無いじっくり見てみたい
  • 賓客用の「南陽寺跡庭園」---朝倉氏の子女が入る尼寺でもあり後の将軍・足利義昭をもてなし宴を催したという
  • 戦国時代の池泉回遊式としては最高級の「諏訪館跡庭園」---愛妻・小少将こしょうしょうの住居があったところで建物に対して庭が大きく贅を尽くしたもの

また

館跡の背後

標高473mの「一乗城山いちじょうしろやま」には

「三の丸」までの曲輪や空堀、土塁などと

山上御殿のあった「千畳敷」が配置され

信長からの攻撃に備えていたもよう。

 

山頂からは

日本海までも見渡せるというから

歩きやすい服装で訪ねたい。

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【一乗谷朝倉氏遺跡】山城跡へ登りたいのですが、どんなルートがありますか? | 福井市ホームページ

 

これこれ^^懐かしい。

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このCMで知りました^^

 

そして

できれば訪問前に

「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」を見ておけば

さらに気分が盛り上がること間違いなし^^

 

 

館跡から一乗谷川を挟んで「復原町並」。

 

京の都にならい

南北200mの通りを中心に

計画的な町割りであったことが確認されています。

 

武家屋敷や社寺

塗師、鋳物師といった職人、商人などが混在する

江戸時代には見られない町並み。

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出土した柱や壁、建築金具など

同じ時代の建物を参考に

当時の建築技術を再現しているとのこと。

 

先が見通せないのは

防御のためか川沿いに造った偶然か。

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地下に残されていた塀の石垣や

建物の礎石を使って復原された

このあたりは武家屋敷群。

 

道路に面した門をくぐって…

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土塀を巡らせた屋敷内には

茶室跡など複数の建物があり

身分の高さがうかがえます。

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見学した当時は

なんか今ひとつ…で終わったのだけど

今なら興味が持てる!

 

歴史好きは

いかに想像を膨らませられるかだと思う^^

 

ここには

当時のものなんて何もないのだから。

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いっぽうこちらは商人の住まい。

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出土したものを複製して設置し

当時の人々の生活の様子を再現しています。

 

染め物を扱う職人さんの家も。

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こぢんまりした町家は

建物が直接道路に面して

裏庭があるのも京都を思わせました^^

 

出土した遺構や品からは

一乗谷の人々の

生活水準の高さを読み取ることができ

1万人超の「北の都」は

京都に勝るとも劣らない

華やかな地だったのでしょう。

 

織田信長の焼き討ちに遭うまでは…

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人けのない復原町並みは

戦に負けてしまえばおしまいという

戦国の世の儚さが伝わってくるのでした。

 

「朝倉駒」という独自の将棋があったようです。

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ほーぅ?

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お出かけできるようになったら

一乗谷に行きたいし

福井城や北ノ庄城跡も見てみたいなぁ…

あれやこれや…いつかきっと♡

 

福井県に限らず

北陸ってなにげに熱いところですよね^^←分かる人?