伊勢と甲賀の間に位置する伊賀の国は
京、大和と伊勢を往来するための
重要な地でした。
戦災に遭わなかったのが幸いし
名所旧跡が点在する城下町になっています。
ただ
実際に歩いてみると
住宅街に点々と残っているという印象で
景観への配慮はあるものの
前回の「旧小田小学校本館」
今回の「旧崇広堂」など
時間が止まっているのは
そこだけな気がして…^^;
地図を見る限り
名所は町の広範囲に及び
そこへ行くまでの間は失礼ながら
住宅しかないのかな?と想像して
他にも見たいところはあったのですが
半日ではとても無理と考え
またの機会に残しておきました^^
さて
中学校の塀に沿って進んだお隣は
国史跡「崇広堂」。
ベンガラ塗りで「赤門」と呼ばれる表門から
お邪魔しまーーす^^
こちらは
将来のお侍さんたちが通った藩校なのです^^
↑「講堂」
東海、近畿地方で
藩校が現存するのはこちらだけ!
全国でも数校という希少さ。
江戸時代中期になると
藩の財政を立て直すため
才能ある武士を養成することとなり
各地に藩校が設立されました。
伊勢の国、津藩は32万石で津を本城とし
伊賀上野には支城を置いています。
崇広堂は
津藩初代・藤堂高虎から数えて
10代・藤堂高兌たかさわが
1821文政4年
津の「有造館」の支校として建てられたもの。
功の崇(高)きを惟これ志し、
業の廣(広)きを惟勤む
という中国の書物が由来となっています。
敷地を南北の溝で仕切り
西は武場ぶじょう、東は文場で
文武両道を目指した場所。
文場として使われた東半分には
創建当時のままの表門や講堂などが残り
西の武場跡には
中学校が建てられているのです。
講堂の扁額は
号を「鷹山ようざん」とする
米沢藩主・上杉治憲の筆によるもので
建学精神のシンボルとして大切にされ
これを守るための「額守」なる職が2人いたほど。
正面からは入れないので
西側にある教官たちの通用口から
あがるようになっています、えっへん^^
その隣には「小玄関」↓
藩主が
年に一度来校するための専用玄関ですって
恐れ入りました^^;
講堂へ進むと…
四方からの彩光を取り入れるため
独立して建てるなどの工夫があり
明るく広々しています。
生徒たちは
講堂正面の階段から入室していたらしく
こちらは観光客なのに大玄関利用で
教官のように扱ってくださって
よく分からない感謝をしておきます^^
教員は10名
生徒は300名ほどで
作詞や作文、医学、算術など
学科によって講堂内で
小グループに分かれていたもよう。
全体図ありました↓
6枚の葉の間のハートのような穴は
猪目いのめという日本古来のデザインです↓
六葉釘隠し。
文字が達筆すぎて^^;
梅のつぼみが色づいてきてますね。
玄関の西側には復元になりますが
みんな大好き「台所棟」^^
窯だけでも趣ある?
吹き抜けの高い天井。
お風呂まで!
台所棟を裏から見る↓
お風呂のお湯が排水されるとこ↓
講堂向かいには「有恒寮ゆうこうりょう」↓
「思斉舎しせいしゃ」という寮を
そのまま移築したもので
当初の寮とは違っているようです。
展示室には
藩校全体の模型など↓
赤門もちゃんと。
通り過ぎてきた中学校の
お城を思わせる立派な塀は
崇広堂の存在を示すためのもの
…という意味もあったのかもしれませんね。
学習内容詳細↓
赤門から表通りに出て
藩主専用「御成門」に気付きました。
東向きにあったものを
南向きの場所に移築したものですが
素材は創建当時のまま。
藤堂家の家紋は蔦つたで
他家でもよく使われるモチーフのため
「藤堂蔦」と呼んで区別しています。
それにしても
伊賀にこんな貴重な建物が残っていたとは!
さすがに小田小学校のように
昔の教科書までは残っていなかったけど
驚きと珍しさで楽しめました^^
このあと
中学校と高校の間の道を
少し入ってみると…?
この日最終の目的地が目の前に^^