ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

【金沢城】の石垣めぐり!!「玉泉院庭園」「大手門」「河北門」から三の丸へ!①

加賀百万石の城下町の中心は

浅野川と犀川に挟まれた丘陵地に築かれた金沢城で

現在の金沢城公園。

 

もとは北陸における真宗の拠点・尾山御坊だったところで

大坂の石山本願寺のごとく

石垣を備えた城塞のような寺院であったようです。

 

織田信長の命により御坊は攻め落とされ

佐久間盛政が城郭へ改造。

 

これが

尾山城、のちの金沢城となるのです。

 

本能寺の変の翌年1583年

織田政権の後継争いである賤ケ岳の戦いで

佐久間盛政は柴田勝家に属し

前田利家も初めは勝家側であったものの

迷った末に勝家を裏切り秀吉側へ。

 

結果、秀吉が勝利を飾っています。

 

信長に仕えていたころの利家は

能登の国の領主で

賤ケ岳の戦いから秀吉の信頼を得て

佐久間盛政の旧領地であった北加賀を加増されました。

 

これまでの領土である能登と越中全土に

46歳のころ北加賀が加えられ

能登の七尾から金沢城へ移るのです。

 

豊臣政権では

徳川家康と共に五大老の筆頭となり

豊臣秀頼を後見。

 

1599年、齢62で病没しています。

 

長男・利長は

関ケ原の戦い後の褒章として南加賀を与えられ

加賀藩初代となり加越能120万石の領主へと成長。

 

外様大名一の大藩となり

このころから「加賀百万石」と周知されるように。

 

徳川幕府からは大藩ゆえに警戒されるも

母・芳春院(お松の方)を人質として江戸へ送り

徳川家からは秀忠の娘・珠姫たまひめ

のちの3代・利常の正室に迎え

前田家の基盤を固めています。

 

利家の4男・利常が後継となってからは

金沢城や城下町を整えつつも

その財力で

加賀藩細工所を設けて美術工芸の振興

茶の湯や能などの伝統文化を推進し

徳川幕府からの疑惑を払拭

前田家の繁栄をゆるぎないものにしています。

 

そうした文化推進策は

歴代の藩主たちも力を入れ続け

京でもなく江戸でもない

加賀流の華やかな文化が開花されたのでした。

 

今日では「加賀百万石文化」と総称され

古都金沢に受け継がれているのです。

 

さて

さらっと金沢城や前田家について

おさらいしたところで

いよいよ金沢城公園の探検^^

写真などでお馴染みの石川門が裏口だというなら

正門てどこやねん、と一先ず大手門を目標に定めました。

 

西の鼠多門からすぐのところは

前田利長の正室・玉泉院の屋敷跡。

3代利常の頃に庭園となり

明治時代は廃絶していたものの

近年、資料を基に復元したようです。

 

お茶することができる玉泉庵は

まだまだ営業時間前でした^^;

 

それにしても

北陸地方の重たい雪で樹木の枝が折れないように

雪つりが施してあるのは風情があります。

 

山の斜面には立派な石垣群。

こんな複雑な形に

よくぞ切りそろえてくれました。

切り石積みの石垣は

ここでは色紙短冊積みと呼ばれ色とりどり。戸室石かな

 

玉泉丸庭園からの景観を重視してあると考えられるそうで

石垣も庭園の一部なのですね^^

V字型の樋からは

落差9mの滝が流れていたことと

その滝壷には石組があるらしく。

 

石組は発掘調査が終わって

埋め戻したとあります。残念。

 

庭園から中心部分へ侵入できるのですが

外周から攻めていこうと

こちらの階段を進めます↓

あぁ、わくわくが止まらない♡

 

見て見て!

この刻印の豊富な石垣^^

寛文年間(1661~1673)のものらしい。

ほほーぅ。

金沢城は

明治時代には陸軍が置かれたこともあり

明治31年築の旅団司令部跡が現存します。↓

基礎がレンガ積み

壁は木造のモルタル仕上げ

左右対称のフランス式だそう。

 

土橋門という門があったらしく

その土台となった石垣を左と↓

右と↓

六角形の亀甲石には

水辺に生きる亀を表し

防火の願いが込められています。深いね。

 

新丸広場↓

広大過ぎて時間が気になる…

 

黒門口も行きたいけど

大手門を優先しよう!

そして意外と近かった大手門^^

尾坂門とも呼ばれるこちらがお城の正門で

慶長年間(1596~1615)のもの。

 

直角に曲がる桝形で

ここから本丸に至る大手筋は石垣で固められたもよう。

大手門には

鏡石という大きな石が組み込まれ

藩の権力を示しています。

下は大手門から続く石垣で

この向こうが大手堀で

なかなかの高さがあるようです↓

↑お堀からの侵入者を見張るため

石段になってますね。

 

北に位置する大手門から入った一帯は

2代利長が1599年頃に拡張した「新丸」。

新丸には

東に越後屋敷という政務の場と

西に作事所などを置いた官庁街のような役割を持つ廓でした。

新丸の西に南北に伸びる堀は

現在は埋め立てられています。

 

だだっ広い新丸広場から

石垣向こうの三の丸を臨む↓

三の丸への正門となる「河北門」↓

河北門を挟んだ右の石垣には

大手筋に睨みを利かせる「ニラミ櫓」↓

河北門の「一の門」をくぐれば桝形土塀↓

河北門の「二の門」を抜け振り返る↓

これで三の丸へ侵入できました^^

 

三の丸への出入口は他に

橋爪門、石川門があります。

 

河北門は大手筋上に位置していて

一番重要な門でした。

 

二の門は城内最大の規模の門で

2010平成22年に復元され

内部が無料で公開されています。

 

が、こちらもまだ公開時間前^^;

橋梁からの眺め↓

↑左前列から河北門二の門、河北門一の門、ニラミ櫓
後列左から橋爪門、五十間長屋、菱櫓

次回へつづきます。