静岡県の中央部を流れる大井川は
かつて遠江国と駿河国の国境だった川で
中流域両岸は現在 島田市となっています。
箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川
と箱根馬子唄に謳われたように東海道の難所として知られていて
川を超えたい旅人は川越し人足に頼らなければなりませんでした。
大井川には架橋も渡船も江戸幕府の許しが降りなかったのです。
理由としては
大井川が江戸城の外堀の役割があるためとか
大御所政治をとった駿府城の防衛も兼ねているとか
水量が多く川幅が広いため架橋する技術が追いつかなかったとか
大企業並みに発展した川越人夫たちの生活を守るためなど
いくつか唱えられています。
江戸幕府が終わりを迎えると
江戸から静岡へ移封された旧幕臣たちには牧之原台地が払い下げられ
輸出の主力となるお茶を生産するため開墾されていきました。
作業の効率を高めるため架橋したのが「蓬莱橋」で1879明治12年のこと。
川の向こうの牧之原台地を宝の山・蓬莱山に見立てての橋の名前で
資金を出し合って架橋したため関係者以外は有料にして
返済や維持管理などに充てたようでです。
今も通行料を取る制度は引き継がれていて渡橋料100円^^
定期券もあるようですし
自転車も渡れますが
迂闊に転んだら欄干低すぎて勢いでドボンとならないのか・・?
橋の長さは897.4mで厄無しと語呂合わせができたり
長い木の橋であることから「長生きの橋」ともいわれ縁起が良いようで^^
映画で見た橋が実在すると知って 渡ってみたいとやって来たのですが
下から見上げる橋脚はおおむね8m、 幅2.4mと
なかなかスリルがありそうです。
ちなみに完全なる木造かと思っていたら橋脚だけは鉄筋コンクリート製で
洪水などで流されないようにしてあるのですね。
いざ橋の上を渡り始めると
板が割れて修復された痕も見られるし
ぎしぎし音が鳴るし・・・
さすがに崩れることはないでしょう島田市管理ですものと言い聞かせ
けっこう歩いたつもりだったのですがまだ ど真ん中^^;
河口から12.4kmの地点に架かっているらしく
大井川の雄大さも実感できます・・・ちょっと飽
橋の上からは富士山が見えると島田市HPにありましたが この日は確認できず。
南に向かって進んでいるので見えるなら左のほうということになります。
ようやく対岸の森へ辿り着くと橋の全景が見られました。
橋脚がコンクリートというのも納得です。
対岸は ただの絶景しかないので
また橋を戻ると40分ほど要していました。
また
お茶どころとして知られる現在の島田市があるのは
刀を捨てて慣れない農作業に励む侍たちを
勝海舟が物心両面で支えたからこそということで
近年「島田市博物館」から移設された勝海舟像が↓
牧之原台地を見守るように置かれています。
台座に解説がありました↓
勝海舟は1860(万延元)年、徳川幕府の咸臨丸の船長として渡米し、この時にお茶が世界的な商品価値を秘めていることを認識する。帰国後、西郷隆盛と交渉して江戸城無血開城に成功し、新政府の要職を歴任した。
1869(明治2)年、勝海舟たちの命を受け、中條景昭、大草高重が指導する旧幕臣たちが、牧之原で1425haの茶畑の開墾を開始した。勝海舟は、旧幕臣たちから様々な問題に対して相談を受け、経済的な援助も惜しまなかった。1875(明治8)年に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で助力し続けた。また1873(明治6)年には、仕事を失った川越人足たちも約30haの茶畑を開墾し始め、1878(明治11)年には、約41haに拡張された。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流を持つ旧幕臣が増えた。当初は小舟を利用して大井川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可され架けられたのが「蓬莱橋」である。
今日、茶畑の開墾を支援し続けた勝海舟たちの存在を抜きに、島田市に広がる大茶園を語ることはできない。
0から始まった開拓士たちのお茶作りが
今では全国の茶園面積の12%を占めるまでになるとは!
そして牧之原とを行き来する橋が
架け替えられているとはいえ
古風な景観で今に残っているのも歴史が感じられて素敵です。
蓬莱橋は「世界一長い木造歩道橋」としてギネス世界記録にも載っているそう。
蓬莱橋はこちら↓