猪苗代町を流れる観音寺川は
桜の名所として知られるところですが
7kmほど西へ進んだ猪苗代湖畔には
偉人伝や紙幣の肖像画などで
その名を知らない人はまず居ないであろうと思われる
野口英世の記念館があります。
明治から昭和にかけて
伝染病の原因となる細菌を研究し
その生涯を捧げた人です。
再訪になりますが
リニューアルされていました。
なんでも15年ぶりに唯1度
日本に帰国した時から100年目にあたったのが2015年で
同年4月1日再オープンしたそうです。
記念館内には
鉄骨の屋根の下に茅葺きの生家が保存されています。
この貧しい農家から
のちに
世のため人のために活躍する偉人が生まれようとは。
家を出たいと願っていた少年期から
医師を目指して上京をする際には
「志を得ざれば再びこの地を踏まず」と
猪苗代を後にする固い決意を柱に残しています。
「過去を変えることはできないし変えようとも思わない。
人生で変えることができるのは自分と未来だけだ。」と
努力して名声を得たからこその
子供の頃を振り返る野口語録も。
1歳半のとき
落ちて大やけどを負った囲炉裏は
当時と変わらぬまま。
英世の人生を決定づけた運命の出来事は
つらく悲しくも医学の素晴らしさを知るきっかけに。
館内2階からは
野口英世も見たであろう磐梯山の眺めも素晴らしく…
左の手指が火傷によってくっついてしまい
「てんぼう」と呼ばれいじめられるも
機能回復手術を生涯に3度受け
「百姓以外の事でも人生を歩めるように」と
進学を後押し励ましてくれた母・シカ。
我が子を進学させるため
自らは
教育を受ける機会に恵まれなかったにもかかわらず
農作業の傍ら
読み書きを覚え
産婆の資格を取ったり
力仕事をしたりして
学費を工面した苦労の人。
己の生ぬるさを反省…(´Д⊂ヽ
熱いものが込み上げてきます。
英世の猪苗代高等小学校時代の恩師で
その才能に早くから気付き
サポートし続けたという小林栄パネル右はじめ恩人たち。
ちなみに
小林氏は私立「猪苗代日新館(1911-1940)」創立者でした。
「素顔の英世」のコーナーでは
将棋や囲碁、油絵などの趣味があったというし
あのころ読んだ?伝記には書いてなかったけど
酒好きの怠け者であったという父・佐代助からは
要領の良さを受け継ぎ「借金の天才」と言われた側面も^^;
渡米前に血脇守之助パネル右から2番目からは
当時500円という大金を準備してもらうも
豪遊して使い果たしたり^^;そりゃ子供向けの本には書けんわ
細菌学の研究は
膨大な実験量にもかかわらず
迅速かつ正確にこなし
努力はもちろん集中力や忍耐力が凄すぎて笑
「英世はいつ眠るのか」などと皮肉られることもあったそう。
メリー夫人も
帰宅しない英世にしびれを切らして
「今日こそ帰るわよ!」なんて研究室に迎えに来たり。
ペンシルベニア大学医学部の助手から
ロックフェラー医学研究所の研究員となり
黄熱病や梅毒などの研究に従事し
世界各国からの勲章などなどが飾られ
日本に訃報が入った時の事や葬儀に至るまで
研究の話は
頭の弱い私にはよく分からないけど
野口英世が凄いのは伝わります。
黄熱病の研究依頼を受け
南米各国で研究、調査を行い
ワクチンを開発して多くの命を救い
次に渡ったアフリカでも
やはり黄熱病の研究を続け
51歳で自らも感染し帰らぬ人となったのです。
喋って動くロボットの野口博士。
お墓はニューヨーク・ウッドローン墓地にあり
猪苗代に生まれたこと(1876.11.24)
ゴールドコーストで亡くなったこと(1928.5.21)
ロックフェラー大学の研究所正員で
科学に貢献し
人類のために生き
人類のために死んだことなどが記され
メリー夫人とともに眠り
今もたくさんの人々が訪れるそうです。
猪苗代町の記念館には
「野口英世生誕地碑」があり
その下に遺髪が納められています。
記念館近くの長照寺にも
英世夫妻の遺髪が納められています。
子供のころに読んだ「野口英世」は
ぼんやりとしか
記憶に残ってなかったけど
この記念館で
野口英世の人となりに触れ
それと共にシカさんの無償の愛や
小林先生らの素晴らしい巡り合わせと
様々な要因が重なって
偉業を成し遂げることができたのだな、と
再確認したり新たに知る部分もありで
『行って良かった』と素直に思えるところでした。
これで600円はお安いもの♪