戦後の電力不足は深刻だったようで
日本の復興の妨げとなっていました。
まだ原子力発電所が無かったため
関西圏で大量かつ安定した電力を確保するには
当時主流であった火力発電所の復旧や
新たな電源開発が急務でした。
国内屈指の急流河川であり水量も豊富な黒部川は
水力発電に適した川として知られ
1920(大正9)年から1940(昭和15)年までに
黒部第三ダム(仙人谷ダム)まで開発済み。
3つの発電所のさらに上流の人を寄せ付けない険しい地に
1956(昭和31)年
関西電力株式会社が政府の承認を受け
4番目の発電所を開発することに。
そのダム開発の資機材運搬に利用された道筋が
「立山黒部アルペンルート」なのです。
1971(昭和46)年から公開されている「立山黒部アルペンルート」は
それまで登山者しか体験できなかった北アルプスの景観を
さまざまな乗り物で移動しながら
大自然に身をあずけることができるとあって
今も多くの人の憧れの地です。
今回は電源となる「黒部ダム(黒四ダム)」と
「立山黒部アルペンルート」について
数回に分けて記録しておこうと思います。できるかな^^;
黒部ダムのある場所は
長野県境に近い富山県の立山町域の
立山連峰と後立山うしろたてやまに挟まれた険しい山あい。
立山黒部アルペンルートを楽しむには
富山県の立山駅か長野県大町市にある扇沢駅を利用するかのどちらか。
扇沢駅からは
関電トンネル(大町トンネル)を電気バスで進めば
立山町の黒部ダムです。
ダム建設の際に
資機材など運び入れるのが最短であると掘られたトンネルで
こちらから黒部ダムへお邪魔しました^^
最短とはいえ扇沢からは5.4kmあり
当時の技術では
トンネルの完成だけで3年はかかると考えられていたところ。
電力不足は国の成長を阻むため
早急な解決が求められていた時ゆえに
与えられた工期は1年。
発電所の完成までも7年しか見積もりが無く
それ以上は日本の経済が待てない状態で
トンネルなどの下準備には1年が限界とされました。
関電トンネルの担当は株式会社熊谷組の笹島班で
扇沢側からトンネルを掘るだけでは間に合わないため
立山側からは間組(現・株式会社安藤・間)が迎え掘り。
立山の雪原から巨大なブルドーザーを
人力で運び入れたというお話も。
現場の責任者であった笹島信義氏は
映画「黒部の太陽」で石原裕次郎さんが演じた実在の人で
のちに笹島建設株式会社を創業しています。
こちらが扇沢駅。
…とその前に
駅の手前には「トロバス記念館」があるので
時間があれば立ち寄ることをおすすめします。見学無料
現在の関電トンネルを走るのはバッテリー式の電気バスですが
2018年までは
架線からの電気で走るトロリーバスが走っていました。
線路も無く、見た目も名前もバスっぽいのに
架線があるから電車の仲間になるそう^^;
約5.4kmという長い関電トンネルには
排気ガスを出さず空気を汚さない乗り物が良いのです^^
活躍していたトロバスは1台だけ保存されたらしく…
よく見ると天井の塗料の吹き付け具合は電車そのもの!
2本のトロリーポールが電気を集めて走るのです^^
でも内部はバスなんですよね^^
三菱自動車工業!
記念館で見るトロバスの足跡。
54年間おつかれさまでした^^
扇沢駅の構内。
改札を抜けて電気バスに乗ります^^
日野自動車株式会社のブルーリボンという型がベースになっていて
ディーゼルエンジンを取り外して
リチウムイオンバッテリーを4パック乗せてあります。
裏側でスタンバイ時に高速充電してるらしい
10分あれば満タンになるそうよ?
…にしても片道1570円(当時)って
地下鉄だったら何区間行けるかな???
トンネル内のオレンジ色のライトが「破砕帯」↓
トンネル工事がはじまって半年ほど
それまで日本記録を出すほどに快調に堀り進めていたトンネルも
入口から1700mの地点で
大量の土砂と4℃の地下水が毎秒660ℓ吹き出す軟弱な地層・破砕帯にぶつかり
工事は暗礁に乗り上げます。
しかし発電所の建設を中止することは
関西電力という会社の存続に関わり
日本の経済までもがかかっているため
やり遂げるほかありません。
80mにも及ぶ破砕帯を
あらゆる知恵と与えられた任務を全うするという信念で
7か月ものあいだ戦い抜き
着工から1年7か月と大幅に遅れたものの
立山側が見えた瞬間は喜びに満ち満ちたことでしょう。
電気バスでは
破砕帯をさらりと通過して富山県に入り
貫通の地点などを過ぎて
片道16分で黒部ダム駅に到着。
扇沢駅では通常非公開のエリアに案内していただくことができ
「黒部の太陽」ではなく本物の映像記録を見て…
破砕帯の軟弱な地盤を固めて排水と掘削
多くの犠牲者を出してもなお
日本の復興のための建設であったこと
観光客で賑わう黒部ダムの明るい面だけでなく
本来の目的を知ることができました。
素掘りのままの荒々しい壁に
当時の苦労が偲ばれます。
地下水で湿っているような空間は
湿度も高く、ひんやりとしていました。
改札の反対方向へ
登山者が歩いていくので不思議に思っていると
知る人ぞ知る「日電歩道」へ向かう人でした。
左上に「日電歩道(登山のお客様)」とあります↓
日本電力は存在しませんが
引き継ぎの関西電力が登山道の管理、整備を行っているとのこと。
さて
駅のホームから黒部ダムへ行く道は2択
・階段下り60段、5分で黒部ダム
・階段上り220段、展望台へ7分
どちらも外でつながっていますが
せっかくなので展望台経由で^^
途中おいしい水ありました♡
黒部ダムでは数か所で湧水が飲めます^^
展望台からの眺め!
圧巻の堤高は186mで日本一
堰堤は貯水量2億㎥を誇る黒部湖を造り
観光放水の時期(6月26日~10月15日)は虹が見られることも^^
ダイナミックな放水も観光資源として
黒部渓谷の景観維持に努める関西電力。
中部山岳国立公園を開発するための国からの条件だそうで
観光放水を行うことで2億円ほど損している計算になるとか^^;
毎秒10tの水が霧状に放水されるのは
そのまま落水すると地面が崩落してしまうから。
黒部ダムから約10km下流の地下に黒四発電所があるのは
落差を約545m大きくすることで出力を上げることがねらいで
黒部川の中でも最も急勾配の区間を利用しています。
地下に設けたのは
雪害を避けるためと自然景観を守るために配慮したもの。
そして
扇沢駅と黒部ダム駅間の電気バスは長野県なので中部電力が
黒部ダムは富山県なので北陸電力が担い
黒部の電力は関西へ送られるが
今は高槻市あたりで使用されているくらい、とのこと。
展望台から階段を下りていくと
大きな黄色い物体が…
コンクリートバケットというもので
通常の物より大きい特注だそう。
工期の遅れを取り戻すべく
コンクリートの打設などは大変な勢いで進められ
世界記録を樹立するほどであったとか。
関電トンネルの当時の用途は
ベルトコンベアーで骨材運び…
コンクリートの柱のようなものが
黒部川の両岸に残されていて
ケーブルを渡してあったもよう↓
対岸の山の中腹にも確認できます↓
その上にそれぞれケーブルクレーンが置かれ
バケットが200m下の川底とを行き来していたのです。
腕利きのクレーン職人を雇って時短していたとか^^
現場では「黒部にケガは無い」と語られていたそうで
これは事故が死に直結するため。
いろいろと
今ありえないことが当たり前な時代だったようです。
1963(昭和38)年6月
工期の延長も無く7年の歳月と513億円の建設費と
約一千万人が力を合わせて黒部ダムは完成しました。
171名もの犠牲者のうえに
今の私たちの暮らしがあるかと思うと感謝の気持ちに偽りも無く…
「尊きみはしらに捧ぐ」
171名すべてのかたの名前が刻まれています。
偶然見かけた芸能人?芸人さん?↓
ではまた次回!