ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

九州の要衝【小倉】のまちの今昔と史実より豪華な姿に再建された【小倉城】

北九州市では八幡西区に次ぎ

人口18万人強を有する小倉北区。

 

小倉駅は新幹線や在来線、モノレールも乗り入れ

さすが九州の主要都市。

 

モノレールが入っていくのを見て

宇宙の鉄道のアニメを思い出しました^^

小倉城に行くつもりで予め地図を見ておいたのだけど

碁盤目状に敷かれた道筋は分かりやすく

駅を出て右斜め前の方向に進むのみ^^

 

京町銀天街というアーケードを抜けると

由緒ありそうな橋をみつけました。

紫川河口に架かるのは

近年、木製の橋に戻したという常盤橋。

常盤橋から小倉五街道が各方面に延びていて

「九州の道は小倉に通じる」といわれたほど。

※長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還

 

日本海からの船が瀬戸内海へ進む海路でもあり

さながら九州の日本橋といったところで

周辺は宿場としても大いに賑わったようです。

 

伊能忠敬も最初に常盤橋を訪れていました。

常盤橋の案内板を読み進めると

世が江戸時代なら

紫川が東曲輪と西曲輪の境界…て

まって?

曲輪ってことはもう城内???

 

城下町は8kmにもおよぶ総構えで囲んでいたらしく

その規模はなんと秀吉の大坂城と同じくらいであったといいます。

 

つまり小倉駅は総構えの東曲輪で

ずっと曲輪の中を歩いていたのでした。

 

西曲輪からは長崎街道を少し歩いてみる…

 

駅が近いのに川を越えただけで

昔の面影が感じられるんですね。

 

この道が日本で唯一異国とつながっていた道とは

江戸時代って情報量少ないけど^^;

異文化がいち早く届けられた道だったのですね。

 

ところで

小倉という名の意味も気になっていたのですが

一説には

かつて皇室への穀物を保管した「小さな倉」が由来とか

「企救(きく)の浦」と呼んだ浜が「こくら」と変化したものとも。

 

長崎街道からはずれて南に行くと

内堀が見えてきました↓

北の丸からお邪魔します。

北の丸は「山里」と呼ばれ

城主の家族の住む御殿があったそう。

 

現在は神社に変わっていて

その名も八坂神社。

小倉藩初代藩主・細川忠興は京都の生まれだそうで

祇園祭といい

碁盤目状の町筋といい

京町なんて名前の町もあって、どうりで。

 

からっぽの内堀を過ぎて本丸へ…

多門口門の桝形↓

↑多門口門の多門とは長屋の意味で

本丸から北の丸への通り道だそう。

本丸から見る内堀↓

天守閣前は広々としてるけど

本丸御殿が敷地いっぱいに建っていたところ。

焼失した天守閣は1959昭和34年に再建

四層五階建て

続日本100名城にも選定。

 

パンフによれば

高さは全国6位で28.7m

1階の床面積は4位とか。

 

…復興天守閣のなかで、ということでしょうか。

小倉城は毛利元就にはじまり

細川忠興が関ケ原の戦いの武功により

豊前の国全域と豊後の国2郡、30万石を与えられ

当初は中津城に入城。

 

1602年小倉城へ移り7年がかりで大改修。

 

1632年には

徳川家の流れをくむ小笠原忠真が入城し

以降、明治を迎えるまで234年にわたり

小笠原家が居城しました。

 

3代将軍徳川家光から九州諸大名監視という特命で

明石から移封してきた小笠原家。

 

西国譜代大名の筆頭として

薩摩の島津氏や長門、周防の毛利氏

筑前の黒田氏ら西国大名たちに注意を払っていたのです。

 

以下、小倉城について城内の資料より

 城の中心は天守閣のある本丸と松の丸、北の丸で、これを囲むようにして二ノ丸、三ノ丸を配した。

 天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である。これは五重目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は、唐造りと称されていた。

 城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約八キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所の門を設けた。

 寛永九年(一六三二)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、十五万石を領した。

第二次長州征伐戦の慶応二年(一八六六)八月一日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。なお、天守閣は、天保八年(一八三七)の火災で焼失、以降再建されなかった。

他では見られない唐造りの天守に

破風…無かったんだ…

 

武家のたしなみであった流鏑馬や

駕籠が体験できたり…

徳川吉宗のため

ベトナムからの白い象が

長崎街道を経由して小倉城下にやって来たこと。

 

小倉城がいかに大きなお城であったとか

栄えていた城下の様子や古地図など。

小倉城庭園の展示棟で撮影した古地図です↓

壮大な海城で

西は板櫃川、南は寒竹川

東を手掘りして砂津川とし

中央に紫川という

全方位水堀に囲まれた強固なお城ということが分かります。

 

明治時代に埋め立てられた総構えの石垣が

発掘調査で構造が明らかになったことや

焼けた建築部材や瓦も発見されて

天守閣の火災が証明されたことなどなど。

 

いろいろな資料を見ながら最上階の5階へ。

見える範囲全てが城郭内ってことでいいですか^^;

 

最上階は毎週土曜日にバーに変身して

お酒と夜景が楽しめるというのも気になります。

お堀の向こうの御殿っぽいのは小倉城庭園の建物↓

小倉城との共通券560円を購入したので

これから降りていきます。

石垣は1つ1つは整えていない野面積みだけど

積み上げた姿は整っていて独特の風情がありますね。

入城するときは何とも思わなかったけど

てっぺんから破風が石垣につながるようで綺麗♡

破風の無い天守の模型はとても簡素でしたが

今の天守は見事に三角のシルエットだし

斜めからなんて陰影が付いて最高!!

当時の姿ではない大阪城のようなものですが

これはこれでありだと思うのです^^

 

さて。

江戸時代に来ました^^

良い眺めですね^^

広縁が張り出して

池がかなり低い位置になっていました。

「のぞき池」という形式なのだそう。

 

書院の内部↓

小倉城庭園は

小笠原氏の別邸の下屋敷跡に

武家の書院と庭園を再現したところ。

お庭から書院を見ると

広縁を支える懸け造りになっているのが分かります。

 

展示棟には

武家の作法である小笠原流礼法の現代までの経緯や

日常の中の日本の礼儀作法など。

相手を思いやる振る舞いを

さらりとこなせるような人になりたいです^^

小倉城庭園を出てからも

つい歩きたくなる街の美しさ^^

脚も疲れてきたけど

このまま旦過市場にも行ってみよう!

↑飲食できるエリアと

そうでないエリアと↓

なにか食べたかったけど人がいっぱいで

モノレールで小倉駅まで戻りました^^

ーおしまいー