徳川家康の出生地である愛知県岡崎市。
岡崎城のある岡崎公園に
2023年の春、お邪魔してきました^^
大手門は再建で昔とは場所が異なるそうですが
くぐると「葵の紋」がお出迎え。
豊臣秀吉の「五三の桐の紋」といえば
桐は鳳凰がとまるという格の高い木であることから
もとは天皇家の紋として扱われており
功績のある武家に与えられていた紋章でした。
先人の足利尊氏や織田信長らと同様に
家康にも「菊紋」や「桐紋」を授けようとした朝廷でしたが
家康はこれを丁重に辞退しています。
代わりに
根が広がり繁栄を意味する葵をモチーフにした「葵紋」を
徳川家の家紋に定め
徳川家以外は使用を禁止することに。
いっぽうで「菊紋」は庶民でも使用することを許したため
日用品や和菓子などにあしらわれ大衆化。
その結果
「葵の紋」は「徳川家」と紐付けられ
見れば誰もが驚くようになったとか?知らんけど^^
こちらは
徳川四天王のひとりにして譜代の最古参
岡崎出身の本田忠勝↓
本多家の家紋は「立ち葵」というもので
徳川家の家紋とよく似ており
一説には家康が本多家の家紋を参考にしたとも。
他家が葵を用いた家紋の変更を強いられたなかで
とくにお咎めが無かったそうで
本多家に対する家康の気持ちがよく分かります。
かつての三の丸あたりは広場になっていて
毎正時、毎30分に
家康が能で時を知らせるからくり時計↓
愛知県はからくり人形が有名ですもんね。
能面を付けたり芸が細かい^^
精巧な動きに感心しつつ3分くらい?楽しめました。
城内最大の堀という清海堀↓
本丸の北を守る清海堀は1452∼1455年
最初に岡崎城を築いたとされる西郷頼嗣によるもので
頼嗣の法名である清海入道から名が付けられています。
本丸側は急な土塁で
対面側は後の改修で築かれた曲線状の石垣。
明治時代まで継承されてきた堀は現状8mほどの深さで
さらに深いものと考えられ調査を進めているそう。
清海掘でトンネルのように見えるのが
天守閣への表口となる廊下橋↓
北側から見る天守閣はいろいろ残念^^;
しかし権威を示す鏡石はお約束↓
岡崎城の石垣は
戦国から江戸時代まで長きにわたって修改築されており
石積みや石材加工の技術に異なる時代を見ることができます。
こちらは
お城の南を流れる菅生川の
菅生川端すごうかわばた石垣↓
草や土に埋もれてほとんど見えていなかったものの
近年の発掘調査で
・1624∼1644年に築かれ
・長さが東西400mと石垣城壁としては日本最長
・石垣は地上では2mだが総高は5m
…といったことなどが分かり
石垣の折れ目(桝形)が分かるくらい整備され
下の部分は再び埋められたっぽい。
天守閣の南が現在の入城口。
天守閣は1959(昭和34)年の再建ですが
天守台の不揃いな石垣は城内最古級とか。
入城すると
天守閣の心柱の礎石が残されています。
明治時代に解体された天守の柱材も
奇跡的に残っていました↓
家康の祖父・松平清康の頃からの岡崎城は
豊臣秀吉の天下統一により
当時は豊臣方であった田中吉政が入城し整備拡張。
家康が江戸に幕府を開いてからは
再び譜代大名が岡崎城を守り
三層三階地下一階の天守閣が建てられています。
2つの川の合流地点に築かれた城郭は
起伏のある地形を活かして
複雑な曲輪を構成しているのが分かりますね。
三河藩の藩庁が置かれ
石高は5万石と少な目ですが
歴代城主は本多、水野、松平と家格の高い譜代大名ばかり。
徳川家が重要視していた場所で
大名たちも誇りをもって務めていたようです。
5階の展望室からの眺め。
とくに北側は
3km直線上に松平家、徳川家の菩提寺・大樹寺があり
「ビスタライン」と呼ばれる線を成しています。
ビスタラインとは
3代将軍・家光が大樹寺の大造営の際に工夫した眺望の線で
本堂から山門を通して岡崎城を望むことができ
歴代の岡崎城主は毎日、岡崎城から大樹寺を拝したといいます。
2つの建物の間には遮るものが無く
およそ380年前から現在まで
地域の方々が守り続けている歴史的眺望なのでした。
こんな感じで固定された円筒があり↓
覗いてみると…
肉眼では見えたんですよ、ほんとに^^;
また
岡崎城と鳳来山東照宮と久能山東照宮は
一直線となるレイラインをも形成。
偶然なのか意図的なのか?
どちらにせよ直線ができることに驚きです。
なお
岡崎城跡は
岡崎市指定の史跡であり「日本100名城」に選定。
岡崎公園は「さくらの名所100選」となっています。
岡崎公園はこちら↓