ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

【知覧特攻平和会館】【知覧茶屋】と富屋食堂を勝手に勘違いしていたという話

知覧町の武家屋敷群のすぐ近くには

戦地に向かう特攻隊員さんたちをお世話したり

遺品や家族への手紙を預かったりしていたという

鳥濱トメさんが取り仕切る「軍の指定食堂・富屋食堂」がありました。

 

現在はトメさんのお話に基づいて再現した

「ホタル館富屋食堂」という名の資料館になっています。

 

当時の雰囲気を感じ取れたり

特攻隊員さんたちが

トメさんに託した遺品や手紙が展示されているところ。

 

隣接する「富屋旅館」は戦後

遺族の宿泊用に建てられたもので

現在も旅館として機能している模様。

 

が!!

痛恨のミス!!!

 

武家屋敷群を見たあと「知覧特攻平和会館」へ向かい

その足で立ち寄った「特攻おばさんの店知覧茶屋」が

トメさんの富屋食堂だと思い込んでいたのでした…

 

知っていれば

富屋食堂(資料館)に立ち寄ったのですが

何も知らないまま武家屋敷群から車に戻った3人は

「特攻平和会館まで10分くらい?近いなー」などと話しながら

駐車場に到着。

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広々とした平和公園内を歩いて…

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日の丸たなびく平和会館に入場。

1人500円なり。

 

特攻とは

米国を中心とする国々と戦っていた日本の

敗戦色がいよいよ強くなってくると

最後の手段として爆弾を付けた飛行機のパイロットが

敵艦目がけて体当たりするもので

少数でも大きな船を沈めることができるが

実行すればパイロットは必ず死ぬことになるという

命を懸けた作戦です。

 

知覧は

大戦中は知覧飛行場として

多くの若者が飛び立っていったことから

飛行場跡地である平和会館では

戦争を2度と繰り返してはならないことを伝えるため

特攻隊員さんたちの写真や遺品などを保管・展示しているところ。

 

知覧の特攻基地からは439名が出撃し

1番若い人で17歳

平均年齢21,6歳という

まだまだこれから未来を担うはずの

尊い命が散っていったのでした。

 

その隊員たちの遺影と膨大な量の最期の手紙が展示されており

残された人に宛てたものという共通点を持つ内容は

これから死にゆく人を思うと胸も苦しいのですが

残りの資料や映像を見る時間、あとの予定も気にしながらで

ここは時間を気にしなくてよい時に

訪問すべきだと思いました。

 

ただ特攻隊員さんたちの

出身地や職業なども確認してみると

遠いところから連れてこられてというか

当時は志願して名誉なことと送り出されて

将来の夢を追っていた人や

夢をかなえて職に就いた人など

生きていたら戦争が無ければ

本当に優秀な人たちであっただろうと。

 

展示資料には

母を思う手紙が最も多いとのことですが

個人的に特に印象深かったのがこちら。

あんまり緑が美しい

今日これから 死にに行く事すら 忘れてしまひそうだ。

眞青まっさおな空 ぽかんと浮かぶ白い雲

六月の知覧は もうセミの声がして 夏を思はせる。

作戦命令を待っている間に 小鳥の声がたのしさう

「俺も今度は小鳥になるよ」

日のあたる草の上にねころんで 杉本がそんなことを云ってゐる 笑はせるな

本日一三、三五分13時35分 いよいよ知覧を離陸する

懐かしの祖国よさらば 使い慣れた万年筆を”かたみ”に送ります。

 富山県生まれ早稲田大学出身 

22歳の枝えだ幹二かんじさんの随筆でした。

 

周囲ののどかな景観とは裏腹に

自分の直面している現実をさらりと書き記しているのが

とても切なかったです。

 

館内では

3人が単独で気になるところを見ていましたが

1時間半くらい過ごしていたでしょうか。

 

ゆっくり見ていたつもりでしたが

見学を終えたものの

Sさんは語り部さんのお話を

それは熱心に聞いていて出てくる様子もないので

一人で外へ出ることに。

 

戦争当時

飛行場のまわりには

弾薬庫や格納庫跡、防火水槽などが置かれていたのが

70年余経た今は史跡として残されています。

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史跡の存在に最初から気付いていれば

散策していたのですが

全てを見るのは無理だろうと思い

1番近い「三角兵舎」だけ見てきました。

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本来の三角兵舎は空襲を避けるため

こちら(飛行場)から離れた松林に造られたそうで

こちらはあくまでも復元です。

 

半地下式で

目立たないように屋根の上には木を乗せていたという。

 

内部は

1人あたり

わずかな手持ち品と寝具一式が置けるだけ。

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ここで出撃までの数日を過ごしたという。

 

それでもまだ出てこないSさん^^;

 かなり持て余し気味にマツコと20分…

だらりんと一緒に出てきてくれました。

 

そして

当初から予定していた昼食場所が

「特攻おばさんの店知覧茶屋」。

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特攻隊員の母・鳥濱トメさんのお孫さんのお店。

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釜飯が名物のようです。

 

店内には

特攻隊員さんたちとトメさんの写真や

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富屋食堂の看板など…

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今はトメさんのお孫さんが

この食堂を受け継いでいるのです^^

 

Sさんは

地鶏の刺し身とか飲む気まんまんだし運転する気ゼロ

じゃあ俺も、というだらりんを制止して地鶏釜飯にさせて

私は薩摩地鶏うどんで^^

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讃岐うどんのダシを

ちょっとしょっぱくした感じのダシと

そしてやっぱりもも肉なんですね^^

 

おいしくいただいて

お店を後にするのですが

昨日ブログを書く気になって見直すと

気付いてしまったのです…

 

「特攻おばさんの店知覧茶屋」ホムペによれば

昭和63年開業で

トメさんの孫・鳥濱明久氏が店主として

トメさんの味を引き継いでいる、と。

 

ーお分かりいただけただろうか。

 

味を引き継いでいるが

お店は新規で建てたもの!!!

 

まったくこちらの勘違いなのですが

私の脳内では

この地に食堂があって特攻隊員たちが利用して

お孫さんがこの土地と味を引き継いだものだと

てっきり思っていました。

 

だって名前がさぁ

特攻おばさんの店ってあるじゃん(。-`ω-)

 

偉そうに「ここが隊員たちをお世話したトメさんのお店」と

案内した自分を殴ってやりたい笑

 

時期を見て

また懺悔したいと思います…

 

                つづく