ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

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陶磁器の街・瀬戸市!【瀬戸蔵ミュージアム】で分かる「せともの」の移り変わり

「うつわ」って

用途を考えたりするのも楽しく

ついつい見入ってしまいますよね。

 

「陶磁器」とか

「(地名や産地など)焼」などとも呼びますが

「せともの」と言えば

割れ物注意の器の代名詞となっているほどで

愛知県の瀬戸市が語源の発祥ということを

意識することもないくらい

生活に溶け込んでいる日用品です。

 

もっとも中国、四国あたりでは

「唐津物」と呼んだりするそうですが。

 

陶磁器全般のことを

「せともの」と呼ぶほどに栄えた街の歴史を知るべく

「瀬戸蔵」を訪ねてみました。

 

瀬戸蔵は
「産業観光」「市民交流」を支援する複合施設で
「せと・まるっとミュージアム」の拠点施設です。
愛・地球博が開催された2005年に
訪れた人々に瀬戸ならではのおもてなしが出来るようにと
この施設がオープンしました。
瀬戸の歴史、伝統、文化を次世代に受け継ぎ
世界に向かって発信し続けています。
館内には瀬戸蔵ミュージアムをはじめ
つばきホール、やきものショップ、会議室などがあり
多くの市民や観光客が集まります。

※ホームページより抜粋

 

館内に入ってすぐのところ

(季節外れとなってしまいましたが)

大きな雛飾りがありました^^ ※2012.2.23訪問

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ピラミッド型の雛壇は

全方位からの鑑賞が可能^^

 

瀬戸蔵の2階と3階が

「瀬戸蔵ミュージアム」なる博物館で

瀬戸蔵の目玉となっています。入館500円。

 

はじまりである2階は

大正から昭和初期のイメージ。

 

当時、せとものの大量生産を行い

今よりも益々活気があったころの

瀬戸の町がテーマとなっています。

 

大正期に建てられ

平成に解体されるまで

焼き物の街・瀬戸市の玄関口として賑わった

当時の瀬戸電気鉄道(現・名鉄)・尾張瀬戸駅の復元。

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街の象徴であったこの駅は

瀬戸焼の輸送体制の拡充を担いました。

 

改札口を通ってホームへ出ると

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可愛い路面電車も停車しています^^

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運転席も見学自由♡

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がたんごとん♪

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木の床といい

シートの布の感じといい・・・良い!!

 

沢山の人が通勤に利用していたことでしょう。

 

駅の外は

瀬戸焼を扱う家並み。

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建物の中に駅や街がある!

博物館のこーゆーところが大好きです♡

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煉瓦造りの煙突やトタン屋根まで

ランニングのシャツに半ズボンで丸刈りの男の子が

「父ちゃん、ご飯できたよ!母ちゃんが待ってる」

なーんて

リアルな妄想をしてしまう^^

 

2階で

レトロな世界を楽しんで

せとものに興味を持たせておいてからの

3階では

瀬戸焼の歴史のお勉強になります。うまい展開!

 

瀬戸焼の歴史は

1000年とも1300年ともいわれ

日本六古窯の1つです。

 

参考までに六古窯とは

  • 越前焼(福井県越前町)
  • 常滑焼(愛知県常滑市)
  • 瀬戸焼(愛知県瀬戸市)
  • 信楽焼(滋賀県甲賀市)
  • 丹波立杭焼(兵庫県丹波篠山市)
  • 備前焼(岡山県備前市)

となっていて日本遺産に認定されています。

 

愛知県の瀬戸市を含む猿投さなげ地区では

5世紀後半の古墳時代から

埴輪や須恵器を焼いていたらしく

鎌倉時代には

日本で初めて水を通さない釉うわぐすり

つまり

人工的にガラス質の釉薬を施した

うつわが焼かれるようになりました。

 

瀬戸の地名は

谷と谷が向かいあう「背戸」からとも

焼き物に適した土が豊富で

「陶所すえと」からきているともいわれます。

 

山がちな土地では

窯にくべる燃料にも困らず

窯業が発展するのも

自然なことだったのかもしれません。

 

織田信長や豊臣秀吉が活躍するころには

茶の湯の流行と共に茶器も生産され

徐々に大衆化していきます。

 

明治に入ると

機械ろくろが導入され

大量生産が可能となりました。

 

1873明治6年からはウィーン万博

フィラデルフィアやパリ万博と出展を続け

世界的にも高い評価を得ています。

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1914大正3

第一次世界大戦がはじまると

独、英、仏では

盛んだった陶磁器の生産が停止されます。

 

そこで当時

欧米の人々に親しまれていた

ドイツ製の精巧なノベルティを

瀬戸で生産、出荷することになるのです。

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セトノベルティは

広く海外で人気を集めるようになりました。

 

瀬戸一帯で採れる粘土は

柔らかいので形成しやすく

鉄分が含まれないことから

白い焼き物になります。

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柔らかいゆえに

様々な形成が可能で用途も幅広く

白い素地ゆえに

多様な色柄を付けているのも

特徴といえるでしょう。

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現在では瀬戸焼は 

和洋食器にとどまらず

陶器の性質を

人工的に高めたセラミックも生産され

自動車の部品などさまざまに活用。

 

「瀬戸ではつくることができないものは無い」

と言われるほど。

 

長い歴史と共に

高度な技術を研磨し

多種多様なニーズに応じてきた「せともの」は

あまりに身近すぎて

じつは凄いということも気付かせないけど

とんでもない実力の持ち主でした。

 

まさかの海外で

「セトノベルティ」という需要があったことも

初めて知りました。

 

毎年9月第2土、日曜日は

「せともの祭」が開催され

名鉄・尾張瀬戸駅を降りれば

200以上ものお店が軒を連ねます。