桂浜へ来たぜよ^^
高知市のサイトによると
坂本龍馬像は
高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め建立。昭和3年5月27日午後2時,除幕式を行い姿を現した龍馬像。和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬は,はるか太平洋の彼方を見つめています。像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。毎年4月上旬からの2か月間と、龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟んだ約2カ月間,龍馬像の横に展望台を設置し,龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができます。
とのこと。
桂浜は
高知県を代表する景勝地で
弧を描く砂浜と生い茂る松の木々
豪快に打ち寄せる白波と
紺碧の海が見事に調和して
さながら一枚の絵のようです。
民謡・よさこい節にも
月の名所は桂浜
とうたわれていて
中秋の名月の頃には観月会が開催されます。
この日は降ったりやんだりで
桂浜の景観もそこそこに
近くの「坂本龍馬記念館」へ。
色合いはあの水族館みたいな感じ?
ここでは
坂本龍馬の生涯を時系列で知ることができます。
幕末の授業って
さらりと終わったような気がするから
あまり頭に残ってないなぁ?と
学校のせいにして^^;
坂本龍馬のことも
ぼんやりとしか知らないので
簡単にまとめてみました。
土佐の国で生まれた龍馬は
18の頃
江戸神田の千葉道場で剣術を習う。
この年は嫌でござんすペリー来航で(1853嘉永6年)
日本は開国を迫られていた。
高知に戻った龍馬は
画家であり思想家の
河田小龍かわだしょうりゅう(ジョン万次郎の本を書いた人)から
世界情勢を熱心に聞き視野を広げるとともに
日本の将来を深く考えるようになる。
武市半平太が率いる土佐勤皇党に
加盟するも脱会し
公武合体にこだわる土佐藩も脱藩。
1862文久2年
再び江戸へ出て
開国を主張する幕府の海軍奉行・勝海舟と
運命的な出会い。
殺すつもりで会いに行ったのが
「国力強化には外国との貿易が必要」だと諭され
その場で弟子になり
日本の国際化に向けて奔走するようになる。
勝のおかげで脱藩の罪を許され
神戸海軍操練所の塾頭を任されるも
海軍塾は幕府によって閉鎖。
勝の紹介で西郷隆盛に会い
薩摩藩の援助を受け
長崎に日本初の貿易会社「亀山社中(のちの海援隊)」を設立し
武器や艦船を輸入して薩摩藩や長州藩へ売る。
長州藩では
これまで尊王攘夷だったのが
倒幕を主張する高杉晋作らの意見が強くなり
いっぽう薩摩藩は
幕政改革から開国へと方針が変わり
龍馬は
2つの藩が手を結べば
大きな力になって
新しい国をつくることができると考え
同じ考えの中岡慎太郎に相談。
高杉晋作と西郷隆盛を京都で対面させ
1866慶応2年
「薩長同盟」を成立させた。
ここから幕府の力は急速に失われていく。
さらに龍馬は
倒幕後の政治のあり方を書いた「船中八策」を
土佐藩・執政の後藤象二郎に示す。
欧州や米国のような近代国家をめざしていこうと
後藤象二郎を説き伏せ
土佐藩前藩主・山内容堂(山内豊信とよしげ)から
15代将軍・徳川慶喜に進言させ
1867慶応4年/明治元年
政権を朝廷に返す
威張るな徳川「大政奉還」がおこなわれた。
大政奉還の翌月11月
龍馬と盟友・中岡慎太郎が
京都の近江屋で潜伏中
何者かに襲われ亡くなる。
新しい国ができはじめて
1か月後の11月15日のことで
その日は龍馬の32歳の誕生日だった。
事件のあった近江屋の室内が再現されています。
お龍さんの写真とか。
坂本龍馬の書いた手紙(複製含む)も多数
愛用のピストルのモデルもありました。
さて
こちらは毎週開催される「日曜市」。
高知城の追手門から東へ1kmほどにわたり
300軒ほどの露店が並びます。
1690元禄3年から300年以上の歴史ある市で
朝6時から15時くらいまで
地元で採れた野菜や果物、植木や生活用品など
所狭しと並べられて
見ているだけでも楽しいものでした。
追手筋の南には
アーケードの商店街「ひろめ市場」があります。
カマスのお寿司を買いました^^
大好きな「ごめん」♡
「はりまや橋」
「明神丸」という名のお店。
カツオ漁船持ってるらしい。
塩たたきとタレたたきのセット。
控えめに言って最高。
高知…いいところやなぁ♡