南は相模湾
背後の三方は山と谷にふさがれ
かまど型の平坦な地が開けていることから
竈谷かまどだにと呼ばれ
鎌倉という地名になったという。
2km四方ほどのこの地に
800年ほど昔
鎌倉幕府が開かれ
1つの時代が築かれました。
当時は宗や元との交易も盛んに行われ
禅宗を中心とした武家文化の拠点となり
寺院建築や仏像彫刻、彫漆など
様々な中国文化がもたらされ
その影響は「鎌倉文化」として区分しています。
ところで以前なら
「いい国つくろう鎌倉幕府」のごろ合わせで
1192年に開府されたと学びましたが
近年は
平家を滅ぼし幕府の基本的な機能が整えられたのは1185年で
’92は源頼朝が征夷大将軍になった年であるから
「いい箱つくろう…」が正しい、という主張が大きいようで。
どちらにせよ
頼朝が鎌倉幕府を開き
北条氏の執権政治が執られ
後醍醐天皇によって倒幕を迎えるまで
源氏3代、北条氏9代、140年余
日本で最初の武家政治の中心地であったところ。
その後
足利尊氏が京都に室町幕府を開き
江戸時代には鎌倉は門前町として賑わい
江の島と共に観光名所として知られていったようです。
京都や奈良と共に古都である鎌倉は
150の寺院、33の神社を有し
自然や史跡に恵まれ
歴史と文化の香る街として
多くの人を惹きつけているのです。
今回は
鎌倉の象徴的存在である「鶴岡八幡宮」へ
ふらっと足を運んでみました。去年の今頃の話です^^;
鎌倉駅を出てすぐの若宮大路は
由比ガ浜と鶴岡八幡宮とを1,8kmで結んでいて
海側の一の鳥居から八幡宮前まで鳥居が3つ。
二の鳥居と三の鳥居の間の道路中央部分は
盛り土と石垣で一段高くなった参道が続きます。
「段葛だんかずら」といって」
源頼朝が身重の妻・政子のため
生まれてくる道の産道と
神社に詣でる参道にかけて安産祈願としたもの。
当初は一の鳥居から続いていたものの
明治の初め頃に取り払われたとか。
左右の堤にはツツジと桜が植えられ
花の頃は名所となっていましたが
2016年
老桜から177本の若桜に植え替え
ツツジ、石垣もお手入れ完了しています。
若宮大路は一般道ですが
段葛は神社の所有地で境内であり国の史跡です。
そして
お気付きいただけただろうか笑
参道の幅が
どんどん狭くなってきていることを!!
二の鳥居の幅は3mありますが
この先の三の鳥居では2mほどになるのです。
八幡宮に近づくにつれ
実際よりも距離があるかのように見せ
長い参道で格式の高さを表現し
沢山の敵に攻められても動きが衰えるように
幅を狭めているという遠近法になります。
鎌倉を京の都になぞらえて
御所の位置に鶴岡八幡宮
朱雀大路を若宮大路であらわしています。
鎌倉が栄えたころは
大路の両側に武士の家が建ち並んだのが
今はお土産屋さんがびっしりと続きます。
二の鳥居から三の鳥居まで540m。
鶴岡八幡宮の前までやって来ました。
昔は朱塗りの木造で「赤橋」とも呼んだ「太鼓橋」。
代々の将軍も
ここからは馬を降りて参拝したとのこと。
太鼓橋を一気に男性が渡れば立身出世
女性が渡れば安産が叶うとされたようですが
今は渡れないようになっていて
両側に平らな橋が設けられています。
横から見てみました…
これだけ勾配があると
一気に渡るのは難易度が高そう…というか絶対危ない^^;
両側に広がる池は「源平池」で
昔は水田であったところ。
日が昇る東側の大きな池は源氏池
日が沈む西側の小さな池は平家池
源氏池には3つ(産)の島が浮かんで源氏の繁栄を
平家池には4つ(死)の島が浮かんで平家の滅亡を
源氏池には源氏の旗の色と同じ白い蓮の花を植え
平家池には平家の旗の色と同じ赤い蓮の花を植え
なに気ない池にこれだけの意味が込められているのは
政子のアイデアだとか。恐ろしい人
東西に広がる源平池
今は
赤も白も仲良く入り混じった蓮の花
毎年6月ごろが見ごろとなります。
太鼓橋を過ぎて東の「旗上弁天社はたあげべんてんしゃ」は
源氏の白旗がたなびいていますが
またのちほど。
そのまま石畳を進めると
東西からの道が交差します。
向こうに見えるのは東鳥居で
西鳥居と向かい合っています。
東西の鳥居の間は260m。
頼朝の御家人たちが
駆ける馬にまたがって
鏑矢を放ち的を射る「流鏑馬やぶさめ」を行い
その腕を競い合い盛り上がったことを起源とする
鶴岡八幡宮の流鏑馬は
4月の鎌倉まつりと
9月の鶴岡八幡宮例大祭
10月の崇敬者大祭で奉納されています。
語源は「矢馳せ馬」ですって。
流鏑馬かっこいいだろうなぁ…見てみたい^^
左に手水舎
正面に舞殿と
その後ろの本宮が見えてきて
いよいよ参拝です。
つづく