「修禅寺」から「虎渓橋」を渡ると…
桂川沿いには「筥湯はこゆ」などの見どころがありますが
明るいうちに遠いところから攻めるのは鉄則です笑
表通りから外れる坂道を指標に従って歩きます。
知らない町はいつも期待と軽い緊張感です。
「指月しげつ殿」という「修禅寺」の飛び地へ向かうのですが
修禅寺についてはこちら↓
北条政子が暗殺された我が子の頼家の冥福を祈って
「宋版大蔵経そうばんだいぞうきょう」を納めて建てた経堂で
釈迦如来が祀られているそうで
頼家のお墓もあり遺骸は指月殿の地下に埋められているのだとか。
指月殿の境内に入ると狭い石段になります。
登ってすぐにあるのは
暗殺された主君・頼家の仇を取ろうと企むも
北条氏側に発覚し討たれてしまった13人の義士のお墓。
もとは違う場所に祀られていたのが
台風の被害に遭い近年こちらに移されたようです。
主君の側に来ることができてかえって良かったんじゃないかと…?
そして中央にあるのが「源頼家の墓」↓
修禅寺と頼家については
鎌倉幕府を開いた父の頼朝が亡くなり18歳で2代将軍となるも病に伏し
その後継者の候補として
頼家の子・一幡いちまんと頼家の弟・実朝さねともの2人を推したのが北条時政と政子。
いっぽう
頼家の義父・比企能員ひきよしかずは自分の孫・一幡だけが跡継ぎだとして対立。
そこで2代将軍・頼家と比企氏が源氏の実権を勝ち取るべく
北条氏を倒すことを企てる。
が
比企氏と一幡は殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった…
といういきさつがあるのです。
北条政子が寄進したという「指月殿」は伊豆最古の木造建築物。
前述の「宋版大蔵経」は大半が焼失し8巻しか残っておらず
うち1巻が県指定文化財で「修禅寺」の宝物殿にあるとのこと。出たよ4時閉館の宝物殿
「修禅寺」のホームページに画像がありました。
経典を意味する指月という言葉は
悟りは心から心へ伝えるもので言葉や文字では表せないとする
禅宗の「不立文字ふりゅうもんじ」という標語のようなものからきているそう。
まぶしく輝くかのような釈迦如来像は203㎝と大きなもので
物を持たないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持つ珍しいお姿となっています。
800年前の悲しい出来事にしんみりと思いを寄せ
いまもお花を供える地元の人たちの温かい心に敬意を払い
あとにしました。
再び表通りに降りてきて…
小京都と呼ばれる修善寺温泉の京都らしい景観を、と「竹林の小径」へ。
宿泊者なら各宿泊施設で手に入れられるであろう散策マップですが
同じようなマップが要所で見られます。
いい感じの石畳が続いて
京都に見立てた桂川に架かる赤い橋も渡ってみたり。
石畳に導かれるまま広いところに出ました。
小径そのものがギャラリーになっていて修善寺の四季を写真で紹介しています。
大きな竹製のベンチから見上げると空も丸い??
竹林の景観は平成6年から3年かけて整備したそう。
ほんとに京都にありそうで鮎料理とかやってるんじゃないかってくらい笑…続く