ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

気になることだけを気にしてたところまで取り上げました

「本能寺の変」じゃない現在の【本能寺】にある「信長の廟所」と亡骸の行方~「大宝殿」で学べること

600年余の歴史の間に

4度の移転、5度の焼失を繰り返し

ようやくこの地に落ち着いたようです。

 

石碑だけが目印の「本能寺跡」から

賑やかな街の中にある

現在の「本能寺」へやって来ました。

 

文化財の指定を受けた建築物も価値あるものですが

信長の廟やゆかりの品々など

信長にまつわるものが見られることで人気です。

 

寺町通を歩くと現れる「総門」。

 

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横の木戸は緊急時のためのもので

扉が閉まっていても簡単に出入りでき

「医薬門」とも呼ばれます。

 

1879明治12

恭明宮(皇族の霊廟)の門を移築したもので

登録有形文化財でもあります。

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左右の築地塀の白い横線「定規筋」は

寺院の格式の高さを表すもので

5本線が最高位。

 

…だからって

京都で3本線とか見たことないな^^;

 

せっかくなので

参拝を済ませてから大宝殿を見学します。

 

蛤御門の変1864年で焼けて以来

1928昭和3年再建が叶った本堂。

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※1864年におこった会津藩を中心とした幕府軍と長州藩との武力衝突事件

総ケヤキ造で

こちらも国の登録有形文化財。

 

ご本尊は三宝尊で

日蓮上人はじめ信長の位牌も

お祀りされています。

 

本能寺は法華宗の大本山です。南無妙法蓮華経

 

本堂の右側には塔頭が7院。

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かつては26院あったとありますから

今も立派ですが

かなりの規模を持つ寺院だったのですね。

 

石畳を進むと

「織田信長公廟」

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信長のお墓は

有名なものだけでも

各地に20か所以上数えますが

こちらは信長の三男・信孝が

焼け跡に建立したもの。

 

お寺を再建途中に

豊臣秀吉の転地命令で共に移転。

 

遺骨の代わりに

武士の魂である信長の太刀を納めて

供養塔としています。

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毎年6月2日には法要が営まれます。

 

廟の隣には「火伏せのイチョウ」

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「天明の大火1788年」って

二条城でも書いてありました!

 

それほど大きな火災だったのですね。

 

イチョウから水が吹き出して

身を寄せていた人々の命を救ったらしい。

 

イチョウの木は水分が多いので

火除けのために植えられることも多いですよね。

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もう2度と燃えませんように!!


さて

いよいよ「大宝殿」です。500円なり

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度重なる戦乱などから難を逃れた品や

信徒、関係の寺院などから寄贈された諸々は

国宝1点、重文3点、総1100点。

 

入れ替え展示を行っているので

1度入館しても次回はまた異なる内容に。

 

信長寄贈で中国由来の「麒麟の香炉」や

「三足の蛙の香炉」

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画像は廊下に展示されていたレプリカです^^

変の前夜

突如鳴き始めたと伝わります。

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ほか

秀吉からの寺領寄進状も展示され

これによって寺町通が造られ移転してきたことや

髭の無い信長の肖像画も珍しく。

 

また

名物狩りで手に入れた茶釜や

天目茶碗の類などもいくつか。

 

信長が使っていたのかと思うと

残っているのが奇跡的♡

 

そしてじつは

アレルギーだったようで…

 

まさかのアルコール飲めない体質。

 

それで信長は

社交の場において

茶の湯を広めようとしたらしく

妙覚寺や本能寺で

好んで茶会を開いていたとか。

 

イメージしていた信長とは

異なる面が発見できました^^

 

また

信長の遺体についても

解説(映像)がありました。

 

それによると…

戦国時代は

戦いに勝った側が負けた側の遺体を…

特に大将の遺体を確保することが最重要でした。

 

信長自身

多くの者を晒し首にしていたため

自分の首が光秀の手に渡れば

必ず晒し首にされ

光秀の謀反が正当化できることは

誰よりも理解していたのでしょう。

 

それで

最期は検分できないように

自ら火を放ったとも考えられています。

 

かねてから

信長と親交のあった阿弥陀寺の清玉上人は

本能寺の急を聞きつけ駆け付けるも

すでに遅く。

 

しかし僧侶という立場から

疑念を持たれず本能寺へ入ることができ

信長の家臣たちに託されて

光秀が発見する前に

信長の遺体を運び出したといいます。

 

その光秀は

「中国の大返し」で戻ってきた秀吉に

「山崎の戦」で敗れ去り…

 

秀吉は清玉上人のことを知り

何度かお寺へ訪ねては

信長の葬儀を執り行いたい旨を伝え

なにかと阿弥陀寺へ寄進したり…

 

しかし

清玉上人は 

信長の遺体が権力争いの踏み台にされることは

許されないと固辞した結果

阿弥陀寺は

御所にも近い一等地から

都の外れへ移転させられています。

 

阿弥陀寺では

信長や森蘭丸たちをはじめ

本能寺の変で亡くなったすべての人々を

供養しているとのこと。

 

信長亡き後は

清須会議を経て

織田家を盛り立てていくことになったのですが

秀吉は

なんとしても

次の支配者が自身であることを認めさせたく

信長の木像を作らせて遺体の代わりとし

1週間にも及ぶ盛大な葬儀を執り行い

遺灰のように扱って

大徳寺・総見院を信長の墓所としました。

 

同じ信長の家臣である柴田勝家は

秀吉よりも先に

妙心寺で100日忌を営んだというのに。

 

秀吉は

信長のために船岡山に

お寺を建立しようとするも途中に終わり

船岡山は信長の霊地として保護されたまま

1869明治2

明治天皇より宣旨がくだされ

「建勲神社」を造営し

信長をご祭神としてお祀りしています。

 

 建勲神社は

「たけいさおじんじゃ」が正式名ですが

「けんくんじんじゃ」とか「けんくんさん」と

親しまれています。

 

以上のように

大宝殿での映像では

京都市内で信長を祀る場所が

  • 阿弥陀寺
  • 大徳寺
  • 建勲神社

と本能寺の他に3か所あり

阿弥陀寺が墓所としてふさわしいことや

見学者用のアプリでは

本能寺と信長との関わりなどを紹介していて

・信長の頃の本能寺の住職は伏見宮家出身で
 朝廷とのつながりを築きたかったこと
・本能寺が高い防御力を持つお寺だったこと
・本能寺の信者には種子島や堺の者が多く
 鉄砲や火薬を手に入れやすかったこと

といった解説がありました。

 

大宝殿を見学したことで

少しだけ信長が身近に感じられました^^

 

次は散策しながらご飯を食べに行きます♪