ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

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【漱石珈琲店愛松亭】からの【子規堂】文豪ゆかりの松山で駐車場無料の施設を訪ねる

夏目漱石の本名は夏目金之助といい

ペンネームのほうがあまりに有名です。

 

「漱石枕流そうせきちんりゅう」という故事成語からとったもので

自らをかなりの変わり者、頑固者であると認め

気に入って使っていたようです。

 

漱石が英語教師として

松山中学校で教鞭をとっていたのは1年間。

 

1895明治28年4月から翌3月までで

翌年度からは熊本へ赴任しています。

 

松山に来て最初の下宿先は小料理屋「愛松亭」で

6月には上野家の別邸に移り住み

そこを自ら「愚陀仏庵」と名付けました。

 

庵の名である愚陀仏とは耳慣れない感じですが

俳句を詠む漱石の号のこと。

 

愚陀仏庵では

8月から病気療養のため帰省していた正岡子規と

共に暮らすこと50日あまり。

 

子規との日々は

英語教師から文豪へ変わるきっかけになったといわれるほど

毎夜、文学論や俳句を交わしたようです。

 

道後温泉のことも気に入っていたようで

立派な公衆浴場で「茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば…」と

至れり尽くせりの様子を友人に手紙で伝えたり…

 

そんな自身の日常をもとに書かれたのが名作「坊っちゃん」で

松山は小説の世界と漱石の足取りが感じられる街だからこそ

多くの人々の心をつかんで止まないのですね。

 

愚陀仏庵は残念ながら戦災で焼失し

萬翠荘の裏手に復元されるも

2010平成22年7月の豪雨で全壊。

 

復元の目途はたっていないようですが

その存在の証として

萬翠荘には愚陀仏庵の模型が展示されています。

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1階に子規が居候していたころのイメージ↑

 

愚陀仏庵からの通勤ルートは

こんな感じだったのでしょうか?^^

話を戻して

松山での最初の下宿先は先述の通り愛松亭。

 

その跡地とされる場所に2017平成29年から

「漱石珈琲店 愛松亭」がオープンしています。

 

萬翠荘は異国の空間でしたが

こちらは和風のような洋風のような

大正時代を思わせる建物に

桜や竹林が雰囲気を盛り上げてますね^^

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小料理屋に下宿していたころ

ここからの眺めを気に入った漱石は子規への手紙に

「小生宿所は裁判所の山の半腹にて、眺望絶佳の別天地」

と伝えています。

 

愛松亭も

小料理屋として復元してほしかったと思うも

この日はクチコミにあった丼などの軽食さえ

感染対策のため提供されておらず

ドリンクとケーキのみでした。

 

漱石コーヒーが人気のようですが

愛媛っぽく柑橘スムージー800円を注文。

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しゃりしゃりの氷と甘い果汁が合わさった上にバニラアイス

さらに器といいテーブルの色合いといい

視覚的にもレトロ感が楽しめて…

 

おいしい、けどお腹は満たされませんが^^;

漱石ファンなら思いを馳せる場所に違いありません。

 

この時間を利用して

次の目的地をあれやこれや検索。WiFiも無料

 

近隣の観光施設は

いずれも駐車場無し。※2022年自分調べ

 

しかしついに発見!

愛松亭から10分前後で駐車場無料、入館料50円というところを。

 

超穴場「子規堂」です。

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子規と言えば

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

くらいしか知らないのですが^^;

せっかく松山に来たんだし

松山ならではのことを知るべくお邪魔してきました。

 

天龍山別格「正宗禅寺(正宗寺しょうじゅうじ)」というお寺の境内にあります。

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本堂脇の案内板によると

お堂は松山城天守閣を

五層六階から三層四階に改修した際の余材で建立したもの。

 

16世住職・釈仏海は

子規とは子供のころからの文学仲間であり

正宗寺は正岡家の菩提寺でもあり。

 

子規は漱石と共に

寺の句会に度々訪れている、とのこと。

 

いろいろと驚きがいっぱいです^^

 

境内で異質な存在に見えた「坊っちゃん列車」も

漱石と縁あってのことなのですね。

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小説の中で坊っちゃんが「マッチ箱のよう」と表現した

ほんとに小さな客車です^^

 

その隣には「子規と野球の碑」。

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日本に野球が伝わった当初から野球が好きで

松山にも広めていたそう。

 

他のスポーツには興味を示さないのに

野球に関しては四季ごとに歌まで詠むほど。

 

ベースボールを野球と和訳したのも

自身の本名・升のぼるぼーる)からであり

バッターを打者、ランナーを走者

ストレートを直球、フライを飛球など

端的な表現は今も多く使用されています。

 

文学の題材にも野球を取り入れ

日本の野球界の先駆者的存在となり大きく貢献していることから

2002平成14年には殿堂入り。

 

春になると耳にする球春という言葉が

野球の開幕シーズンを表す季語であるのも

子規が歌の題材に多く取り入れたおかげかもしれません。

 

つづいて子規堂の案内板をよむよむ。

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正宗寺の住職が

お寺の境内へ子規の生家を移築したようです。

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それが焼失して再建したものの

今度は松山大空襲で焼失したので

友人の記憶などをもとに翌年再現した建物なのですね。

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玄関の左には三畳の勉強部屋。

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三畳間ができるまでは

この窓際に机を置いて勉強していたそう。

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松山藩士の家に生まれ

上京して漱石との出会いがあり

大学を中退後は新聞記者となった子規。

 

新聞では

歌はもとより連載や紀行文、批評までこなす文才ぶり。

 

肺結核に冒されてからは前線を退き

血を吐いてまでも鳴き続ける時鳥ほととぎすのごとく

号をホトトギスの別名「子規」とし

俳句雑誌「ホトトギス」を創刊。

 

ただ綺麗な言葉を並べただけの形式的な俳句から

生活の中で生まれる現実的な新しい俳句を普及させたのもこの人。

 

1902明治35年9月19日に亡くなるまでの

36年の生涯になんと18000句を残しています。

 

最後の7年間はほとんど寝たきりの中でも

病と闘い、文学に改革を挑んだ情熱の人でした。

 

病没前

枕に頭を付けたまま描いた「薬物帳」と「草花帳」。

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絵心もあって多才なのですね^^

 

ほか病床時の食事内容や体調の自筆メモなども。

 

展示物には1つ1つに達筆な解説があり…↓

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これが読みづらくて

何が書いてあるのか分からなかったものも多々^^;

 

なのでそれで飽きてしまって

少し早いけどチェックインしに行きます。

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子規堂の場所はこちら↓