パラフィン製の洋ろうそくは馴染みがあるものの
和ろうそくは似て非なるもの。
それはハゼノキから採れる木蝋などを
丁寧に塗り重ねて仕上げ
ろうそくの芯までもが植物由来。
地球にやさしいことはもちろん
すすが少なく周囲を汚さず、汚れても落としやすく
大きな炎は芯に空洞があるため消えにくく
1/fえふぶんのいちという心地よく幻想的な揺らめき。
職人さんの手から作られる和ろうそくの灯に
魅せられる人も少なくないようです^^
主原料となるハゼノキは
日本では500年ほど前に中国から種子が輸入され
和ろうそく用に栽培されていました。
拾ってきたハゼノキの画像です^^;
ウルシ科ですが樹液に触れない限りかぶれないそう。
ハゼの実から採れる油脂が木蝋です。
江戸時代に入ると木蝋は
鬢付け油や膏薬などへも使われるようになり
収益に繋がることから
暖かい西日本の諸藩で生産されるように。
明治期には近代化に伴い
整髪料や化粧品、クレヨン、カーボン紙などの文具
艶出しや防水材、錆止め、減磨剤など
暮らしの中の様々なものへと利用され
需要が飛躍的に伸びました。
貿易品として輸出されるようになると
日本の木蝋の品質の高さは海外へ知られることとなり
ハゼは農家の重要な換金作物だったのです。
内子では江戸時代中頃から
藩の奨励でハゼの栽培と木蝋の生産がはじまり
大洲藩の財政を支えてきました。
八日市護国地区には
木蝋によって財を成した商人の町並みがあります。
保存地区内「木蝋資料館上芳賀邸」の文化財建築を前ブログで見て
今回は同館内「木蝋資料展示棟」を。
ここでは今まで知らなかった木蝋のことや
内子がどれほど潤った町だったのかを知ることができます。
木蝋ができるまでには
まず採取されたハゼの実を工場で粉にして蒸します。
搾ると出てくる油脂は生蝋きろうと呼ばれ…
ここまでなら石鹼や和ろうそくなどが作れます。
二次製品のために日光に晒して白蝋、晒し蝋に精製し
箱に詰めて出荷というのが大まかな流れ。
生蝋、白蝋、晒し蝋は総称して木蝋といいます。
内子町の本芳賀家初代・弥三右衛門やざえもんが
水に触れてはじけた蝋から偶然に発見した独自の晒し技術
「伊予式蝋花箱晒法いよしきろうばなはこさらしほう」を開発したことにより
生産量と品質が向上し日本有数の産地となりました。
熱い生蝋を水に落とすと一瞬にして固まり
花が開いたような形になることから蝋花といいます。
蝋花は木箱に入れて晒すこと約1~2か月…
天日に晒すと白くなり
晒し場には一面の蝋花が
雪が降ったかのような景観を見せていたとか。
町の通りには白蝋の盗難防止に蝋垣が残っていました。
内子では白蝋のみの専業で行う業者も多く
こちら上芳賀家も
本芳賀家に次いで町内第2位という生産量。
明治の中頃には内子の白蝋生産は最盛期を迎え
23軒の製蝋業者だけで国内の30%を産し
日本一を誇っていたのです。
箱詰めにされた白蝋は小田川から船で運び
多くが神戸の貿易会社を通じて欧米へ輸出されました。
下は本芳賀家が政府高官を招いて
愛媛でのハレの料理・鯛そうめんなどでおもてなしする場面。
直々に内子まで訪ねてくるとは
どちらの立場が上なのか分からない^^;
1893明治26年シカゴ万国博覧会
1900明治33年パリ万博
1904明治37年セントルイス万博で
白蝋を出品し高い評価を得て銀賞、銅賞などを獲得。
蔵にもあしらわれていた「旭鶴」の商標。
旭日と鶴の取り合わせは
日本的で縁起の良い商標ですね。
白蝋によって作られた製品にはCDやインクリボンも。
自然界に存在するその他の蝋。
和ろうそくの職人さんは手肌が綺麗とかで
自然由来のものは口に入っても害がありません^^
意外にも身近なものに使われていたとは気づく由も無く
知らずに何かしら使っていたかもしれませんね。
日本有数の蝋の産地として
巨万の富をもたらした内子の製蝋業。
大正時代まで栄えたものの
石油由来の安価なパラフィン蝋の出現や
電気の普及などで需要が激減。
1757宝暦7年より製蝋業を始めた本芳賀家は
1919大正8年には160余年の幕を閉じ
内子では大正13年を最後に
全ての製蝋業者が廃業し終焉を迎えました。
生活が便利になるのは良いことなのに
時の流れは少し切ない…
商人たちの豊かな歩みが残されたままの内子は
遠い昔に心打たれる素敵な観光の町へと変化を遂げていました^^
重文・井戸屋形と蝋搾り小屋↓
貴重な製蝋用具の1つ
蒸したハゼ粉を搾って蝋を取る機械↓
そして内子でも鯛めし♡
どこかのお店と随分値段が違うなぁ…^^;
ミシュラングリーンガイドジャポン★の「りんすけ」
★★★わざわざ旅行する価値がある
★★寄り道する価値がある
★興味深い
個人的には★★でした^^